幸友19
9/48

の16年間は、ずっと体も気持ちも中途半端だったのでしょう。「苦しいことを楽しむとはこういうことか」と実感できたのが代表の4年間でした。 あの時メダルを獲れなくて、頭の中が真っ白になりました。北京大会の前年度まで銀メダルを死守し続けてきたのに、次の年に5位に落ちるなんてまずありえません。試合中さまざまなアクシデントがあったとはいえ、どうしてもその結果をチーム全員が受け入れられず、選手村に戻りチームメンバーとコーチでミーティングを行いました。とにかくすべての不満やマイナスの気持ちをこの部屋へ置いていこうと全員で決め、何時間にもわたりそれぞれの思いを吐き出しました。先輩後輩、選手コーチ関係なくすべてをぶちまけた時間でした。その壮絶な時間を経て一旦はすっきりさせて帰国しましたが、まもなく代表メンバーは全員引退を決めました。そして私自身、絶対ならないと思っていた「燃え尽き症候群」になってしまったんです。 何とか職場へ通うことはできましたが、あれだけ鍛えていたにも関わらず体を起こすことができないくらい辛い日々が半年間続きました。「オリンピアン」という肩書きがあると、周りの人はいろいろなことができて当たり前のような感覚を持ってしまいます。仕方のないことでしたが、嫌な気持ちはありました。そんなある日、とある英語の先生から「オリンピアンには“仕事ができる人”という意味もあるんですね」というメールをいただきました。その一言で私の気持ちがスーッと楽になったんです。オリンピアンという言葉に縛られていたのはむしろ私の方だったようです。一つのオリンピアンは達成できたのだから、次はもう一つのオリンピアンを目指せばいいんだと気持ちを切り替えることができたんです。 現役引退後に、シンクロのコーチと審判の免許を取得。シンクロに携わりながら、自分が経験したことを伝えられる指導者になりたい、シンクロをもっと普及させたい、厳しく完璧を求められるあのシンクロのイメージを変えたいと思うようになり、今は誰もが親しめる生涯スポーツとしてのシンクロを小学生や高齢者に教えています。また、大学で教鞭もとっていますが、そのきっかけは、社会に出る前の最終段階の学生たちに、さまざまなことを吸収させて社会へ送り出してあげることができれば楽しいだろうなという思いからでした。学生は可能性の塊です。でもそれを出そうとしない学生、あるいはその発揮の仕方がわからない学生たちもいます。私自身、シンクロを通して最高に辛いことでも楽しまなきゃ意味がないと実感したときから、すべてを楽しむというモットーが自分の中にあります。もちろんそこにたどり着くまでにさまざまなことを乗り越えてきました。まだその意味がわからない学生も多いですが、それをどう実感させるかを教えるのも教育の面白いところ。苦労しても楽しいと思えたときは、必ず結果が次のステップにつながったときです。そしてそのことを実感できるのも自分自身でしかないんです。最初から楽しいだけで結果は出ません。そこを大切にしながら学生と接しています。何気ない一言に救われた瞬間を経て。シンクロの動きを使用した水中運動を教え、シンクロの普及に努める。2008年の北京オリンピックのチームメンバーと。手前から5番目が松村先生。Special talking of the Olympian08

元のページ  ../index.html#9

このブックを見る