幸友19
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 直接お金を生み出すことがない研究には、国の予算が用意されにくい傾向が続いています。国立大学では、人文社会科学系学部学科を整理統合する転換も。これは危機的状況だと感じています。国の経済的な基盤が下向きにある状況だと、焦ってモノをつくって売ることや資源を開発することを優先しがちです。そのような仕事に従事するのは理系出身の人たちですから、当然、育成に力を入れることになります。しかし、それ以外の学問は何の役にも立たないと判断されることには異議を唱えます。現在のこの風潮を進めてはならない理由として挙げられるのが、福島第一原子力発電所の事故です。テクノオプティミズムということばに象徴されるように、人間は科学でなんでも克服できると信じて今日の発展を進めてきました。でも、超えてはいけない一線はあります。科学者や技術者が楽観主義的に突き進んでしまうことを抑止したり、引き戻したりするのは、人間のあり方や営みを真っ向から見つめる人文学系の役目ではないかと思います。 私たちは、ことばによって社会の現実をつくっている傾向があります。例えば、日本語で「肩」を示す範囲と英語の「shoulder」が意味する位置は少し異なります。英語では腕の付け根の外側だけを指すので、肩こりを直訳しても意味が伝わりません。しかし、英語圏の人が一旦、肩こりという概念を知ってしまうと、途端に肩こりを意識し出すということが実際に起こるといいます。ことばでハイライトされたことで現象が「生まれた」ことになりますね。また、ことばは人間関係を調節する役割も持っています。社会に要請された上下関係を打ち壊そうと思ったら、敬語は使わなくてもよいはずです。つまり、私たちは敬語を使った時点で相手を目上だと認めていると表明することになります。人間関係を決める交渉の手段としても、ことばは使われているのです。 これら人間の頭の中の営みは、まだほんの少ししか解明されていません。ことばが頭脳で起きていることの表れであれば、人間が思考する仕組みを解明する手がかりになるのではないでしょうか。そのために言語学があると考えてみれば、社会の役に立っていることになります。そう考えてみると面白いですね。柳谷啓子先生の 従来メタファーは文学の領域で論じられる文彩の類とされたが、本書はその通念を覆し、人はメタファーを通じてこそ日常的に世界を把握しているとする。私たちは、抽象度の高い事象に遭遇した時、それを理解するのにより経験的で身体的基盤をもった枠組みをマッピングして理解していると言うのである。たとえば、抽象的な「人生」の「誕生—生育—死」をより具体的な「旅」の「出発—過程—終着点」で捉える「人生は旅である」というメタファーからは「人生の岐路に立つ」他、多数の表現が生まれる。これは画期的な考え方であり、(嵩の多寡を上下方向になぞらえる)「より多きは上、より少なきは下」などの枠組みからは「給料が下がる」「株価は高騰」などが生まれ、最早これ以外の捉え方は難しくなってさえいる。認知言語学の分野に属する書籍ではあるが、例が豊富であるため一般書としても充分に読めるはずだ。―実際、私たちはことばがなくては何もできません。「レトリックと人生」 G.レイコフ・M.ジョンソン 著 渡部昇一・楠瀬淳三・下谷和幸 訳  大修館書店(1986年)―文系不要論が取り沙汰されたこともありました。27

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