幸友19
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る」という表現を私たちはごく普通に使います。しかし、本来、“明るい”とは視覚的な情報であり、人と人とのコミュニケーションの手段である挨拶の様子を表すことばではありません。私たちは、溌剌とした挨拶には目の前が開けているかのように感じて明るいと表現しますが、本当に挨拶自体が光り出すという意味ではないことは誰もが知っています。しかも、ことばの綾や修辞学のテクニックとして文学的に表現しているわけでもありません。つまり、私たちは何かを概念として捉えた時点で、すでに何かに喩えて考えているのです。比喩は、頭の中で写像するかたちでことばにしているだろうと考えられます。私たちは、抽象的で捉えにくいものを理解しようとする際、より具体的で身体的な基盤のあるものを使って認識しようとしているのです。このような事例を一つひとつ挙げて証明していくと、私たちはメタファーなしに物事を考えたり語ったりできないとさえ言ってもよいことがわかります。メタファーがもしも存在しなかったら、私たちは世界を把握することができないくらい根源的な思考のプロセスであることを、最初に理論的にまとめた一冊なのです。 例えば、量の多さ(少なさ)を高さ(低さ)で表現するのは文化間で共通性が高いと思われます。引力が働いている地球上では、物質の量が増せばそれは下に積み重なっていって、視覚的には高さとして捉えられるからです。従って、「高収入」(high income)などはどこの文化でも同じように使えそうです。こうしたメタファーは、翻訳文化としてではなく、人間の生物学的な認知能力の賜物だろうと考えられます。 これに対して、文化的な背景が異なる概念の場合は、概念上は同じメタファーで捉えていたとしても、言語化される際に独自の表現になることがあります。例えば、同じように「議論は戦争である」というメタファーを用いていても、刀文化の日本では「世相を斬る」という言語表現が生まれ、銃文化のアメリカでは “You disagree? Okay, shoot!”(=異論があるだと。よし言ってみろよ。ジョンソン&レイコフ1986, p.5)という表現が生み出されたりします。 私たちの脳は、すべての事象を一から把握しようとすると脳の容量が耐えられないそうです。世の中のすべての事象において個別の概念を持っていたら、たぶん頭がパンクしてしまう。だから、抽象度の高いものや複雑なものを単純化するメカニズムが働いているのだろうと推測されます。すでに知っているものの枠組みに置き換えて一旦捉えてみる。わかっているもので未知の現象を理解しようとする。メタファーがあるから、私たちは未知の概念や新しい事柄をすんなり受け入れられているのです。 学問は、役に立つかどうかで測れるものではありません。私たちはどういう仕組みでことばを使っているのか、社会はどうして成り立っているのか、という知的興味を学問や研究によって解明することが人文学のあり方です。病気を治すことや日々の生活に直接利益が生み出されるという実学の基準に立って、役に立つ・立たないと評価するものではないと思います。そもそも、価値基準をどこに設定するかで、価値があるかどうかの判断は変わります。その基準そのものを生み出すことが、人文学の役割ではないでしょうか。―どうして私たちはメタファーに頼っているのでしょうか。―どんな言語でも同じ思考プロセスを辿るのですか。―このような発見は、社会でどのような役に立ちますか。26

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