幸友19
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下。気持ちを追い込めなくなり、「渡辺はもう終わった」という声も聞くようになりました。同じ頃、トップクラスのサウスポー選手に勝つために行った対策が、結果として練習方法や自分の卓球スタイルを崩すことになり、それに伴い技術も落ちてしまいました。どん底の2年間の始まりです。しかし、その後、優秀な後輩が私の所属する協和発酵へ入社するという出来事によって、私は最低な状態から引き上げられました。その後輩の名は松下兄弟。兄の浩二選手は後に日本で初めて卓球のプロ選手になる人です。その二人の入社が決まり、私は練習相手としてしっかりしなければという思いから行動と気持ちも変えてトレーニングを開始。すると意外にも自分の調子が上がっていきました。練習場には誰よりも早く行って最後に帰る。自身の練習では新人という気持ちでフォアハンドやフットワークなど基本に立ち返りました。当時の私は失うものがありませんでしたから、プレッシャーもありません。とにかく卓球をやらせてもらえることが幸せで、楽しくて仕方なかったですね。そんなときはすべてが上向き。そして30歳で迎えた全日本選手権で優勝し、その翌年のバルセロナ大会にも出場できたのです。 それから34歳で引退するまでは、協和発酵で監督兼選手としてマネジメントを経験し、若い選手のサポート役に徹しました。会社と卓球部の関係を良好に保ちながら、ときには精神面を強化する意味で若手選手に海外へ武者修行に行くことを勧めました。選手は成熟すると環境を変えて苦労を経験しなければ成長できません。また、自分がそうであったように、卓球の技術だけでなく国際感覚を身につけるためにも海外へ行くことはいい経験だからです。国際大会にもたくさん出場しましたが、海外では想定外の出来事がよく起こりました。何が起きても動じずに対応できる力が身についたのは海外生活のおかげだと思います。 選手引退後は酒類部門の営業に配属され、北海道に転勤しました。そこでもさまざまな経験を通して成長させてもらいました。それまでは内勤でしたからもちろん営業経験はありません。初めての土地で業界の常識もわからず、商談もうまくいきませんでした。卓球ができたから仕事もできるはずだと、どこかで勘違いしていた自分に悔しさもあり泣いていましたね。ただ、そんなときある卓球界の先輩が、「卓球の講習会に行こう」と誘ってくださり、仕事が休みの土日に、いろいろな地区で卓球を指導する機会を作ってくれました。謝礼は北海道各地のおいしい食べ物。それが最高に素晴らしくいいリフレッシュになりました。そんな救いの手もあり、徐々に仕事を覚えていきました。 さまざまな縁があり、中部大学へ来て6年目を迎えました。先日、中国に短期留学をしていた学生が帰国しました。帰国した途端にまた行きたいと話していたことに、留学を勧めた私としては喜びを感じました。さらに、その彼の話に周りの部員が刺激を受けるといういい効果も生まれています。卓球部では、とにかく部員がいろいろな機会に触れることと成功体験を積むことを大切にしています。卓球は大小さまざまな大会があるので、そこで勝つ経験を積んでほしいですね。そして中部大学の卓球部員として誇りを持ち、一人ひとりが輝いてほしい。これが今の私の夢です。第二の人生の始まり、選手から営業職へ。1991年度の全日本選手権・男子シングルスで優勝した瞬間。1988年のソウルオリンピックでの予選会にて。Special talking of the Olympian10

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