幸友18
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時代になりました。これはすさまじい変化です。先にも述べましたが、生きていく上での動物としての本質的な行動は、“ものを食う”ことですが、そういった供給体制は完全にそこから外れています。また、本当に恐ろしいのは、食の供給体制が完全に社会のインフラになっていることで、自然災害や震災が起これば、大混乱を招くことは明らかです。インターネットがあっという間に私たちの生活のインフラになったように食の供給体制も同じ。社会全体が一つの組織化されたシステムの上でしか機能しなくなっており、個々の力だけでは生きていけない世の中になってしまっているのです。 食の供給体制の発展によって確かに暮らしは便利になりました。このシステムに依存しなければ生きていけなくなっていることも事実です。ただし、この食の供給体制が商業的である以上、さまざまな規範や基準があり、衛生面などから破棄せざるをえない大量の食料が発生します。この必然的に出てくる無駄によって、どれだけ人類の飢餓を救えるでしょうか。こういった矛盾も踏まえて、どのように日本の中で食料を自給していけるかを真剣に考えなければなりません。さらに持続可能な社会を考えるとき、その先には必ず生態系の問題が出てきます。地球上に生命体が存在していること自体が生態系全体の問題であり、生態系を壊せば人類は生きていけないことを忘れてはいけません。たとえば日本の農業を救うために、付加価値の高い商品作物で収入を上げるという話もありますが、そういうレベルの問題ではないように思います。 文化としての食習慣の進化は、世界中の食材の取り合いを招き、食料問題はこれから深刻になる一方です。しかし、学生に食や栄養について教える立場としては、生態系、食、文化など、あらゆる分野について自分の考えを持ち、具体的な問題に対処できる職業人を育てたいと思っています。科学としての栄養学、つまり分子生物学まで含めて理解できる人、さらには長い人類や生命の歴史全体も踏まえて、生命や摂食という問題における哲学を持てる人になってほしいですね。食の問題は人類全体の問題であることを認識し、私たちは知恵を出さなければならない、そういう時代になっていると思います。横山信治先生の この本をいつどこで購入したのかは覚えていない。8年勤めたカナダの大学から名古屋の大学に移ってきたころで、出張の機内や車内での時間つぶしのために手頃な文庫本として何となく手にしたのだろうと思う。どこかでタイトルを見て記憶していたのかも知れない。しかし、こうしたルポルタージュ風のものはあまり読まない私であったが、その内容に引きずられて一気に読んでしまったことは鮮明に覚えている。これは、ものを食う、という生物としての本質的行動と、人間の文化としての「食」の有りようのせめぎ合いを、世界の様々な歴史的地理的文化的政治的な局所における「事実」を容赦なく書き連ねることで表現した、希有な読み物である。5年前、中部大学で食と栄養について教えることになったとき、真っ先に頭に浮かんだのはこの本のことであった。新聞の連載として最初に書かれてから二十年以上たっているはずであるが、今、ここで提起されている問題はますます深刻になっているとしか言いようがない。―そういう中でも個人としてできることはあるのでしょうか。「もの食う人びと」 辺見 庸  共同通信社(1994年)27

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