幸友18
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菜が大切(中略)花の美しさを愛でるより実の美味きが勝つ。8月27日、門前ノ防空用水槽、富士子ニ手伝ワセテ柿ノ木ノ下ヘ並ベル。私ヨリ彼女ノ方ガ力アルラシ。早速、コノ中ニ堆肥ヲ入レル」。日記の余白に—秋暑し押し転がすや防火槽—と句を記している。 ここに出てくる「防空用水槽」は当時、空襲のため各戸の軒先や路地に置いていたもので、この中へ土を入れて野菜か何かを栽培しようとしている。終戦70年経った今でも、セメント製防空用水槽もしくは防火用水槽(図2)に土を入れて、花草木を植えている家を見る。東京や名古屋の大都会にかぎらず、周辺の町々でもこのような光景に出会うことがある。むろん、今では食用の南瓜・野菜ではなく観賞用の花や植木が多い。食糧難だった頃の防火槽ではない。 敗戦後、どこの町でも土や砂利を敷いた道が多かった。雨が降ればぬかるみ、夏の乾季には砂・土埃が舞う。埃をおさえるために、用水槽の水を汲んで散水する家があった。もっと古くは桶で散水していたのだろうが(図3)、私が記憶しているのは街中を散水車が走っていた。水の入ったタンクを積んだトラックが如雨露のようにして水をまく。散水車の後方を追って走っていると、土埃と夏草のむせ返るようなにおいがした。道は土のにおいがした。 においで思い出した。英文学の吉田健一さんが『英国に就いて』の書中で、英国の朝食の話を書いている。ハムを食べるとハムのにおいがし、朝の気分と同じ新鮮なにおいがする。パンは麦のにおいがし、焼いてバターをつけるだけでトーストは旨い。英国の日常的生活、食卓に朝のにおいがすると。またスコットランドではマーマレイドがあって、そのオレンジの苦味が旨いという。私も偶然見つけた輸入品マーマレイド(図4)をパンにつけて食べてみると、なるほど風味があっておいしい。これが英国の朝のにおいかと。 わが日本国では炊たてのご飯、お味噌汁が朝のにおいである。これに代わる朝はないように思われる。ある所で吉田さんと夢声さんが対談した記事を見た。敗戦後の吉田さんが自製のカストリ焼酎を飲み、モク拾い(たばこの吸い殻)の貧乏的生活で文学をやろうとした話。一方、夢声さんの日記では未成熟な南瓜やトマトの実、乾パンをお味噌汁に浮かせて食べたり、知人とジュラルミン(日本軍用機の廃材)をとかして鍋でも作ってみるかと。夢声さんがヤケッパチな話をしている。死にものぐるいで生きた戦争世代の人たちは、戦後世代と少しちがうようである。明日がないような暗黒な社会であっても朝はくる。乾パンを浮かせたお味噌汁であっても朝のにおいがしたのであろう。 名古屋駅裏で立ち話した白髪の老人は、ドヤ街、ヤミ市、汗のにおい、土埃の町に住み続けて、「敗戦後」の何を語ろうとしたのか。ナゴヤステーションと構内(旧・国鉄名古屋駅・1993年)図3 散水の風俗・江戸末期図4 マーマレイドとパン・名古屋市内・・・・・・・・・うまほこりじょうろうま18

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