幸友17
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 1560(永禄3)年、その年号を、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いとして記憶する人は多いだろう。しかし、この戦をきっかけに、今川軍についていた徳川家康(当時19歳、松平元康と名乗っていた)が岡崎へ逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした歴史を知る人はそう多くないかもしれない。この自害を思い留まらせ、後の天下統一への道を歩む第二の出発点となる出来事の舞台となったのが、岡崎城の北に位置する松平家・徳川将軍家の菩提寺「大樹寺」だ。 「この地に逃げてきた家康公に、当時の住職、登誉上人が『厭離穢土、欣求浄土』の八文字を授けたといわれています」と話すのは、大樹寺執事の野村顕弘氏。現在、その言葉は本堂内陣に向かって両側の柱に掲げられている。乱れた戦乱の世を制して泰平な世を願い求めるという意味であるが、登誉上人によって“戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目だ”と諭された家康は、感銘を受け切腹を思い留まったという。 またこの時、寺に押し寄せる敵軍が大樹寺を取り囲んだが、僧侶たちが力を合わせて家康を守った。「なかでも登誉上人の弟子で、身長2mもあったといわれる祖洞和尚は、門のかんぬきを引き抜いて武器として使ったそうです」。そのかんぬきは、今も立志開運の「貫木神」として大方丈に祀られている。 現在の大方丈は、1857(安政4)年に再建されたものであるが、今でも小大名、中大名、大大名、そして将軍が泊まっ若き家康の人生の転機、戦のない平和な世を願った原点を訪ねる。山門から道路と小学校の校庭を挟み、総門越しに見える岡崎城の天守閣。徳川家祖・松平8代の廟所と家康公の遺品を納めた墓。手前の家康公の墓は、大樹寺保存会により1969(昭和44)年に建立されたもの。1535(天文4)年、松平清康公が建立した「多宝塔」。境内唯一の室町時代の遺構である。大樹寺2愛知県岡崎市大樹寺 http://home1.catvmics.ne.jp/~daijuji/愛知県岡崎市鴨田字広元5-1TEL.(0564)21-3917■宝物殿拝観料大人400円/小・中学生200円とうよかんぬきじんおんりえどごんぐじょうど

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