幸友17
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うとしていたところ、ソウル市内の本屋で韓国の『建築用語辞典』に出会いました。巻末の建築工事現場俗語はハングルで書かれていましたが、購入して詳しく調べると全収録語数の一四四八語のうち一三八五語が日本語でした。事実、韓国の建設工事現場では今でも日本語が通じます。“汲み取り便所”までが通じるから驚きです。その背景には、日本統治時代に現地の労働力が多数調達され、現場作業を円滑に進めるためになかば強制的に日本語が用いられたことにあります。そして、研究テーマを確定付けた書籍『真珠の詩』には大きな影響を受けました。本書は、朝鮮動乱で亡くなった夫の遺志を継ぎ、孤児施設「共生園」で約3000人もの孤児たちを立派に育て上げた田内千鶴子の波乱に満ちた生涯を描いた作品です。1965年、戦後の排日・剋日の雰囲気高まる中にありながら、韓国は日本人の彼女に文化勲章国民賞を与えています。その3年後、彼女が56歳で他界すると木浦市で3万人が出席した市民葬が執り行われました。このような凄い日本人がいたという事実が私の気持ちを韓国の木浦市調査に向かわせたのです。 調査開始当初、韓国の本屋で歴史書籍を見てみると日本統治時代が全部欠落していました。韓国建築史関連の書籍でも韓国に日本人が入ってくる以前の論文は記載されていても、その後の記述がなされず現代に至っているのです。子どもたちの歴史教科書も同様で、あまりの不自然さに衝撃を受けました。これは韓国に限らず、日本でもその事実をしっかり教育していません。このような事実認識の曖昧さが、彼女のような素晴らしい人を多くの日本人が知らない理由なのかもしれません。また、同じ理由で日本人による韓国の都市計画についてもあまり触れられません。生活道路を整備するレベルではなく、何もないところに街をつくっているのです。さらには、日本から農村・漁村移住が行われており、実測調査からは日式建築の材木が日本から持ち込まれた可能性もあることが分かってきました。おびただしい日式建築の数を考えると、相当数の日本の山が禿山になった可能性が考えられます。軍需産業のみがクローズアップされがちですが、韓国の地に本気で都市を築こうとしていたのです。そのために韓国へ移り住んだ日本人は40数万人いたと言われています。しかし、私たちの認識では数千人が移り住み、敗戦後に日本へ帰ってきたイメージしかありません。 その通りです。韓国には相当なインフラが整っており、現在の北朝鮮の平壌から北へと伸びる鉄道網などは戦中に日本が敷いたものです。多くのインフラを日本がつくったのですが、敗戦処理の一環でそれら全てを補償として譲渡しています。これらの整備に一体どれほどの巨額が注ぎ込まれたのでしょうか。韓国への資金、人材、資源などの投入により日本国内が少し沈滞化する状態だったと言われています。元気の良い日本人が海外に出て一旗上げようと頑張っていた時代なのです。建築でも当時一級の建築作品が建てられましたが、多くの先輩たちは黙して語ろうとしません。戦後処理の中で正当な評価を得ないまま、今それらの建築作品が朽ち果てようとしています。また、優れた建築作品は実存しているにも関わらず、日本の建築史には作品が無いことになっています。このようなことから、日本建築の歴史に空いた穴を埋めたい気持ちが私にはあるのです。建築を研究する立場から、日韓関係の行方や歴史認識の良し悪しなどは一切関係ないものとして、歴史的事実を置いておくべきだと考えています。歴史認識が正しいとか間違っているとかはその時代の威勢者や価値観によって変わりますが、事実だけは変わりません。ですから、事実だけを記述するつもりで日式建築の実測調査に取り組んでいる最中です。―なぜ私たちはそのような日本人を知らないのでしょう。―日本人が現在のインフラ整備の一役を担ったと言っても過言ではなさそうですね。26

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