幸友16
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 江戸時代より湯治場として栄えた、岐阜の下呂温泉。徳川家康から四代の将軍まで仕えた儒学者・林羅山が、下呂を兵庫の有馬、群馬の草津と並ぶ日本三名泉の一つに称したことから、その名は知られるようになった。しかし、源泉が飛騨川流域にあったため、度重なる洪水により、湯壺や源泉が埋没することもしばしば。また、湯温が一定しないために燃料費がかさむなど、苦難の歴史が繰り返されていた。 時は流れ、旧国鉄高山本線の開通まであと3年に迫った昭和2年。下呂の町は、長年の温泉開発に疲弊し、外部資本の導入を求めていた。そこで当時、名古屋の実業家であった岩田武七氏が、協力の手を差し伸べ、私財を投入。下呂を一大リゾート地として開発するプロジェクトを始めたのである。昭和4年に着工した工事は、丸2年の期間を経て完工。そうして生まれたのが、今も当時の姿をそのままに残し、下呂富士と称される湯之島山の中腹に佇む「湯之島館」だ。 「当時“日本に名所が又一つ”というキャッチフレーズが掲げられたこと、また総動員6万人、敷地面積5万坪、投資総額は当時の金額で百万円。相当な大工事だったと推察できます」と語るのは、創業者武七氏の孫であり、現オーナーの岩田栄七氏。「昭和5年といえば、日本の灯がすべて消えたといわれるほどの不況の時代。ただ、祖父は、その工事を途中で止めることはなかった。そこに祖父の想いの強さを伺うことができます」。近年では珍しい純和風の木造三階建ての本館を案湯之島館贅を尽くした老舗旅館で、飛騨の名工の技と昭和浪漫を堪能する。有形文化財に登録されている渡り廊下。窓一つとっても同じ規格のものは二つとない。和風建築の粋を集めてつくられた「本館」。建物の形状が複雑なため、部屋ごとに見える庭の景色もさまざま。岐阜県下呂市大浴場、家族風呂、部屋のお風呂、シャワーに至るすべてに源泉をそのまま提供。大浴場、家族風呂、部屋のお風呂、シャワーに至るすべてに源泉をそのまま提供。ぶしちえいしち131

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