幸友16
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喫茶店はコーヒーを飲みに行くだけのところ、であろうか。風俗学の多田道太郎さんがその昔、若い人から「コーヒーは太平洋戦争以前からあったの?」と聞かれ、びっくりしたと書いている。ちょうど、アメリカからインスタント・コーヒーが移入された1960年代頃の話で、明治前期の珈琲茶館を若者は知らないのである。コーヒーが西洋文明のシンボルだった時代を知らないのだ(カットは福沢諭吉が慶応3年に書いた『西洋衣食住』にあるチーコップ、ソヲセルの図)。 インスタントのコーヒーが日常生活に入ってから、すでに50年経った。喫茶店とカフエーのちがいも知らない。否、若者に限らずふつうの大人だってわからないだろう。カフェではなくてカフエーと呼んで流行したのは大正期から昭和前期、都会を中心に出現したのだから、その体験者は今では90〜100才に達するだろう。 大阪で書かれた『カフエー考現学』村嶋歸之著(1931年刊)によれば当時の流行風俗は映画・ジャズ・ダンスホール・レヴュガアル・ネオンサイン・マネキン・イット(性的魅力がある人)…などが、大阪の享楽街に現われ、カフエーもこうした風俗の真っただ中にあった。「カフエーの女給さん」とは、そういう店でコーヒーに限らずビールや洋酒など、アルコール類をサービス(給仕)する女性たちであった。この女性たちのサービスがエロティックで過度すぎるとされ、後年、風俗規則の条令が出る。コーヒーなどを喫茶する店と、アルコール類のサービスをするカフエー、バーと区別されることとなる。くわしい事情は同書(2004年柏書房で復刻された)をごらん頂きたい。 この条令にさきがけて、1929年4月に名古屋では「白色のエプロン」を女給に着せるなど、風紀上の改善をしたという。図Aは名古屋のカフエーで観察したもの。ボックス式のテーブルでエプロン姿の女給さんがサービスをしている。規制条令後のカフエーの寸景である。 現在、街の喫茶店は大勢の人が集まり、にぎやかであるが、戦後の日本は実にさまざまな喫茶店が出現し、消めつして行った。たとえば、ジャズ喫茶・シャンソン喫茶・名曲喫茶・うたごえ喫茶・民芸喫茶・山小屋喫茶・キャンドル喫茶・写真喫茶・深夜喫茶・同伴喫茶・ダンス喫茶・マンボ喫茶・アルサロ喫茶・ビル喫茶(ビルまるごと各コーヒーおとなよりゆき・・・・・・・・・人は喫茶店で何をしているか図A 「考現学から覗いた・春の採集帖」1932年7月、名古屋新聞から。図中①はカフエー内のボックスでの女給さんの動線。⑤着物にエプロン、帯に注文書きする鉛筆をはさむのが女給仲間ではやった(作図・亀山巌)。7喫茶空間と 現代の風俗岡本信也text by Shinya Okamoto17
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