幸友15
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の能力をはかることはできません。まだ芽が出ていないところの可能性に賭けたい。フィギュアスケートのオリンピック銀メダリスト、伊藤みどりさんにこんなエピソードがあります。彼女が母校でスケートを教えたときのこと。スケート経験のない一人の生徒が転んだのを見て、彼女は「転び方が上手いね」と声をかけたそうです。できたことよりも、できなかったことに可能性を見出す。これがプロの教育です。教師はしばしば教えたがります。しかし、子どもには子どものやり方がある。その子の前に立って「ここまでおいで」と言うのではなく、知識を押しつけるのでもなく、一緒に一歩を踏み出す。並走する。時には後ろから押してみて、手を離す。こうした教育によって初めて、子どもたちに「我に力あり」という自信が生まれるのです。私は現代教育学部長ですので、教える学生たちは将来教師を目指しています。中部大学で本当の教育に触れ、卒業してからは地域の教育現場で自ら実践していってほしいですね。 社会は変わりつつあります。産業にも経済にも、正しい答えのない時代が到来しました。今までになかったものを生み出す力が求められているのです。ここ東海地方の企業にも、新しいアイデアで世界に挑むことが必要になってきているのではないでしょうか。そこで役に立つのが先ほど申し上げた、「生きる力」です。学生にも、早い時期から仕事に触れる機会を設け、身をもって学ぶことを体験させたいと思っています。昔の弟子入りは、教育の良い例でした。一緒に生活する中で感覚をつかんでいく。師匠の背中を見て感じる。技をぬすむことを憶えていく。そのような学び方をしていれば、叱られても「どうして怒られたのだろう」と、自分で考える力が身につきます。言われた言葉に「どうしてだろう?」と疑問を持つこともできます。大人は時に嘘をつきます。その事実に気づき、社会の嘘を見抜き、自分で真理と言葉を結びつけていく。そうして身体で学んだ言葉こそが、真のコミュニケーションを可能にするのです。豊田ひさき先生の 私が最近惹きつけられた本は、社会派のノンフィクション作家佐野眞一と高校教師で原発事故後も福島に住み続ける詩人和合亮一の対談『言葉に何ができるのか 3.11を超えて―』である。言葉の職人である二人によって紡ぎ出される東日本大震災と原発事故の下での庶民の生活の実情は、正に眼の前で展開されているドラマを観ているような臨場感がある。その臨場感は、「小文字の日常」が描き出されているところにある。「頑張れって言わないで、言われると泣きたくなるの」という小文字であるが故に、読み手に、もしそれが自分であったら、自分はどうするだろう、と次を読み進めたくなる状況が創りだされる。このような状況に引き込まれた読み手は、そこで自分なりに考えている、頭だけで考えるのではなく身体全体を使って考えて(=哲学して)いる。もう一冊、「事実は小説より奇なり」の典型として佐野眞一『あんぽん 孫正義伝』もお勧めしたい。「           」―そうして巣立った若者たちを迎えるのは、競争社会です。言葉に何ができるのか 3.11を越えて─佐野 眞一 和合 亮一 徳間書店29

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