幸友15
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てそう思うのですか?」と問いかけることができる、とてもデリケートな話題です。しかし、そのようなシチュエーションではなく、書面でポンと質問してしまった。恐ろしいことだと思います。どうして、こんなことが起こるのか。それは、言葉を発する側に、コミュニケーションには文脈が必要なことが理解できていないからです。自分が言っていることに対して、相手がどう感じるかの配慮が足らない。自分の脈略だけで会話をしているからです。そもそも、コミュニケーションに、「立て板に水」のような話術は必要ありません。朴訥でもいい。自分の発する言葉が相手にどう伝わるかを考えて話す。一言一言が通じるかどうか慮って言葉を選ぶことが大切なのです。でも、そのような思いやりが、現代の社会では失われつつあります。  最近、学生たちと向き合っていて実感することがあります。今の若者たちには、生きていくこととはどういうことか、大学を卒業して社会で働くとはどういうことかがわかっていない人たちが多いということです。経済的に豊かな日本では、大学へ行く理由が「みんなが行くから」になってしまっている。卒業後もフリーターで何となく生きていける。だから、就職しなくても十分だと思う。そこに、大学まで進学させてくれた両親や、ここまで成長を見守ってくれた地域社会に対する感謝は感じられません。当然、恩返ししなければという使命感も見受けられません。彼らにとって、生きること、仕事すること、生活することの意味が、とても浅くなってしまっています。昔は、大学進学は特別なことでした。「親が苦労して働いたお金で大学までやってくれた。だから生活費は自分でなんとかしよう」と、夜中に働くなどしながら苦労して卒業した。勉強のために頑張ったのです。そして、そうして頑張ったことが、自分の自信へと確実につながりました。しかし今、多くの大学生にとって、アルバイトとは遊ぶお金を稼ぐための手段に過ぎません。努力して勉強していないので自信がない。学ぶモチベーションも生まれない。つまり、「自分自身がない」のです。だから、人と会話をする際に拠り所となるものがありません。自分はこうだから、相手はどうだろうと慮ることができない。表面的で浅薄な自分しかないから、相手の立場を想像することもできない。しばしば「想像力の欠如」と表現されますが、自分に照らし合わせて相手を見る力が育っていないのです。 今、地域の教育力が失われています。地域全体で子育てしていくという意識がなくなってしまった。人は一人では生きていけないのに、どんな人とも一緒に生きていこうという気持ちが希薄になってきたから、いじめなどの問題が生まれているのではないでしょうか。学力重視で、「生きる力」の育成をおろそかにした結果です。しかし私は、教育とは「生きる力」を育てることだと思っています。文部科学省は学力をIQではかろうとしますが、それでは「生きる力」は育ちません。本学に入学した学生も、これまで小・中・高校と学力重視一辺倒の中で育ってきたことでしょう。でも、中部大学での勉強は、自分の足で確かめ、自分の目で見て、自分の手で触れて納得することだと伝えたい。学生たちは原石です。今、表面に見えているものだけで学生たち―どうして、思いやりのある会話が生まれないのでしょう。―では、若者の自信を育てるにはどうしたらよいのでしょうか。28

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