幸友14
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した。しかも「原発を危険だ」と唱えてきた人たちは、まるで反体制運動の推進者のような捉え方をされていました。それにも関わらず、今回の原発事故が起こった後、「原発は安全だ」と言っていた科学者が一斉に意見を変えて、脱原発を唱え始めたのです。いまはこれだけ情報の発達した社会ですから、その人が昔何を言っていたかは調べればすぐにわかってしまいます。同じ科学の基準で、原発事故の以前と以後とではこれだけ意見が変わってしまうのかと驚いています。今回の原発事故が科学の限界をより明らかにしたのではないかと思いますし、「科学のあり方」というものが、いま世の中に問われているのではないでしょうか。 私は、科学とは元々限界を持っているものだと思います。たとえば自然科学は、この世の中の自然がどうなっているのかを解明することが目的ですが、自然というものは非常に大きく複雑に構成されていますので、複雑なまま見ていたら結果を明らかにすることができません。ですから、それを細かく切ってみたり一部分だけ取り出してみるという、機械論的な解析方法で我々の科学は進歩してきました。現実的には、そういった方法でないと事実を明らかにすることができなかったわけです。しかし、どう考えてもこの世の中は機械でできているとは思えません。私たちの科学や自然像は機械論的な解析方法で積み上げてきたデジタルなものであって、元々のアナログで弁証法的な自然とは明らかに違うものだという自覚を持たなくてはならないと思います。自然という全体の中で、我々はほんの一部分しか知らないのだという謙虚さが必要です。そこを自覚せずに、いまわかっている学問だけで判断して原発は安全だと言ってしまうと、今回のような間違いが起こってしまうのだと思います。 実は、いま考えても当時から正論を言っている人たちもいました。たとえば『安全性と公害 武谷三男現代論集5』という本の中に、1973年当時、原発の安全性について語られていたことが載っています。「冷却パイプがこわれて冷却効果がなくなったらどうなるか。それが重大事故の発端だ。化学工場でも一番こわれるのはパイプだ。タンクやタワーは仮に地震が起きても結構持つものなんだが、パイプは地中にあっても非常に強度がとりにくくて、いちばんやられやすい。だから、原発でいちばん怖いのは冷却水管の破断だ。これが破れて水がなくなったら最後、急速に温度が上がってしまうし、1分以内に次の手を打たないとウランの燃料棒が溶け、中から放射能のあるガスが、まず出る。その、外へもれる量は炉内の放射性物質の20パーセントくらいはあるといわれる」と、まさに今回の事故のようなことが指摘されているのです。ということは、40年前にも原発の危険性を指摘してきた人たちは少ないながらいたということであり、そうした人たちの声に耳を傾けてこなかったということがわかります。やはり、科学だけに基づいて政策判断をしてしまうと間違いが起こります。原発の安全を唱えていた人たちの言っていることも全部は間違いではありませんが、それと原発をつくることとはまた別の問題です。科学的な判断は必要不可欠ではありますが、常にそれを超えたものを判断しているという視点、また科学は限界を持ったものだという視点を持つことが非常に重要になります。―「科学のあり方」とは、どういったものなのでしょうか。―日本が原発を推進していくに当たって、もっといろんな議論がなされるべきだったということでしょうか。28

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