中部大学教育研究20
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きかけること、その働きかけに恒常的に応じること、この可否について、わたくしたちは真摯に考えなければならない。國分(2017)によれば、「脳神経科学やそれに影響を受けた分野では、行為における意志の役割に強い疑いの目が受けられている」とし、それ以前に哲学の世界ではスピノザによって意志なるものの格下げが強く推し進められたとされる。心理学の世界においても「意志の力のような認知能力を活用する手段だけを頼りにしてしまうと、やがて困った事態を招くことになる」、あるいは「合理性が感情に勝る」という考え方には欠陥があるという知見に注目が寄せられている(DeSteno,D.2018)。まず、教員から学生への働きかけであるが、他動性が強ければ強いほど、働きかけられる学生は受動的な立場に追い込まれることになる。このことを念頭に置くならば、冒頭に登場した「学生を巻き込むFD」という発想には与しがたい。「巻き込む」という日本語には「ある関係や仲間に引き入れる。まきぞえにする」(日本国語大辞典縮刷版第一版、小学館)、あるいは「本人の希望しないつきあい(関係)に引き入れる」(新明解国語辞典第六版、三省堂)という意味がある。学生が自ら希望しない関係に強い力で巻き添えにされたとき、その関係の中で執り行われる活動に、彼・彼女が前向きに取り組むことができるとは考え難い。ところで、日本語の他動詞「巻き込む」を受動態の表現に直すと日本語では「巻き込まれる」となるが、英語の“involve”を受動態表現“beinvolved”にしたとき、それは「巻き込まれる」ではなく「関与する」という自動詞のニュアンスを持つようになる。それは他動詞の「驚かせるsurprise」を受動態表現“besurprised”にしたときに、「驚かされる」ではなく「驚く」という自動詞的表現になるのと同じである。他動詞性が失われ、自動詞性を得たとき、その動作が誰かによって設えられたという感覚は極めて希薄になるはずである。誰かによる働きかけがなければ、その働きかけに気づくことはないし、その力が及ぶ方角へ歩みを踏み出すこともないのだが、それが「感謝(gratitude)、思いやり(compassion)、誇り(pride)」にソフトに働きかけるものであればあるほど、その主体の関与は意識されないものとなる(DeSteno,D.2018)。働きかけられた側は、実際には働きかけられてはいるものの、「気が付くと自然にそうなっている」状態に自身があると感じることができる。國分(2015)は、強い意志の存在に対する疑念をベースに、ぼんやりとしているうちになんとなくある状態に至っているのが自然であると主張しているが、「主体的な学び」のスタンスを手に入れることについても、FD活動に関わることについても、同様のことが該当するのではないか。高等学校を卒業するまで教員の言うことに耳を澄ませ、板書を丁寧に筆写し、試験に出るポイントを覚えるようにと指導されてきた青年が、大学に入学した途端、主体的に学べと言われ、受動と能動とのギャップに驚き、戸惑うという話はしばしば耳朶に触れる。この戸惑いは、例えば教員は主体的に学べと言っているのに、その教員によって「ある物事を行わされ、行わされていることについて考えさせられる」という「態」の矛盾によるものであったり、主体的に学べと言われるだけで、何も支援されない放任のせいであったりする。放任は使役態の一つであるから、これらはいずれも能動的な働きかけによってもたらされる問題である(三浦2020a,2020b)。FD活動についても、これが義務化されていることを金科玉条に関係者の参加を強く求めたとしたら、求められた者がその取組に積極的な関与をすることは期待するべくもない。各大学においてFD活動を担うポジションにある人間の苦悩は、構成員のFD活動に対する無理解・誤解というよりは、「気が付いたらFD活動に参加していた」というようなソフトな働きかけが難しいこと、このような働きかけを恒常的に行わないといけない詮無さにあると考えてよいだろう。そもそもFDを義務(obligation)とする発想がおかしいのであって、これは使命(mission)として捉えるべきものである。Faculty各々が自らの使命に鑑みて、気が付いたら自然にdevelopしている、それが自然な状態なのである12)。人にものを教えることによって自分自身がそのことについてよりよい理解を得られたり、誰かを支援することによって自分が誰かの役に立っているという自己肯定感が生まれたりするのはよくあることである。人にものを教えるのは自分の理解を深めることを意図して行うことではないし、自己肯定感を強めるために誰かを助けようとするわけでもない。理解の深化や自己肯定感は、気が付くとなんとなく生じているものであるが、それが結果として行為者(主語)のためになっているというこの状態は、國分(2017)によれば「中動態」と呼ばれるものである。学生の学び(アクティブ・ラーニング)を実効あるのものにするためにも、そしてそれを実現すべく教員と学生が共に学習パラダイムにおけるFD活動に関与するためにも、誰かによって仕向けられる受動態でも、強い意志の力で働きかける能動態でもないスタンス―中動態―が求められるのである。繰り返しになるが、学習パラダイムで目指すべきは学生の学び(アクティブ・ラーニング)を創発するこ試論学習パラダイムにおける学生とFDの関係を考える―9―

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