中部大学教育研究20
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が足りないようにみえても、友人と一緒にコーヒーを楽しむ時間を持つことはできるということです」と答える。観念的な内容の話を目に見える形で強烈に伝える授業の一光景であるが、一から十まで事細かく教えることに情熱を傾ける教員にとって、あるいは知の転移を旨とする授業を実践している教員にとって、それを省察する契機を与えてくれるものである。教員の有する専門的知識は自らの中で体系だった構造を持ち、当然のことながら個々の知識相互の連関を教員は把握してるが、授業でそれを一時にそのまま伝えることはかなわないので、やむなく知識を断片と化して学生に授けようとする。それはまるごと一尾の魚ではなく、まるまる一頭の牛でもなく、例えば鮭の切り身あるいはそぼろであり、牛肉の細切れあるいはミンチ、換言すると「砂」のように細かなものである。教員が学生に「この砂を入れなさい」、あるいは「こちらの小石を入れておきなさい」と言ってそれを大量に学生に手渡したとしたら、学生の瓶は断片的な知識でいっぱいになるばかりである。教員は砂(断片的な知識)を学生の瓶の中に入れる前に、もっと大切なもの(考え方のフレームワークなど)をこそ学生の瓶の中に入れてあげようと考えなければならないのではないか。本当に大切なものが瓶の中に入っているのなら、学生は自分が必要とする知識の何が足りていないかを知ることができる。必要なのに不足していることが分かれば、自らそれを探しにいくはずである。「自分にはここが足りない。それをもっと知りたい」と学生が思うような、知識や真理に対する飢えのようなものを教員が引き出してあげると、学生は自らにとって必要だと自らが判断した知識を求め、これを構築しようと能動的、主体的に動き出すはずである。これすなわち知識構築の実践体験である。学習パラダイムにおいて教員が勘案すべきは、教育パラダイムにおいて頻繁に取り上げられた“Howtoteach”に代わって、“Whattoteach”と“Whatnottoteach”を厳選することなのである。これが学習パラダイムにおいて学生の学びを支援し、促すために必要なことである。(三浦2018)5学生はどのように授業改善のための活動に関与しているのかこれまで見てきたように、教員が学生の学び(アクティブ・ラーニング)を実現するために十分な配慮をしながら授業における創意工夫を重ねることが学習パラダイムにおけるFD活動の要となる。教育パラダイムの失敗に学ぶのなら、学生を教員にそのような配慮をしてもらう存在(客体)としてではなく、その配慮のもとに自ら学ぶ意義と価値を発見し、主体的・能動的に学びを展開する主体として位置付けなければならない。授業の改善は教員のためではなく、学生のために行うべきものであり、実際に学生が学び(アクティブ・ラーニング)を体現しなければ、その授業改善に意味はないからである。このことを踏まえたうえで学習パラダイムにおけるFDの在り方を検討していきたい。その検討に先立って、最近の我が国のFD活動、授業改善のための活動の動向を概観しておく。表4は文部科学省のデータに基づいて2011年から2018年にかけてのFDの具体的内容の推移をまとめたものである9)。2011年には専任教員の75%以上がFD活動に参加し中部大学教育研究No.20(2020)―6― WS ALWS 75 N % N % N % N % N % 2011 396 52.2 128 16.9 377 49.7 149 19.5 382 50.3 2012 384 50.1 137 17.9 341 44.5 129 16.8 361 47.2 2013 395 51.8 144 18.9 353 46.3 205 26.9 376 49.4 2014 416 54.5 133 17.4 370 48.4 263 34.4 382 50.0 2015 434 56.4 150 19.5 376 48.9 320 41.6 431 56.1 2016 428 56.5 151 19.9 387 51.1 320 42.2 476 62.8 2017 433 56.5 163 21.3 363 47.3 306 39.9 522 68.1 2018 417 54.8 160 21.0 362 47.6 293 38.5 546 71.7 表4ファカルティ・ディベロップメントの具体的内容(抜粋)※活動の具体的内容には、この他に、大学院生を対象としたプレFD、新任教員を対象とした研修会、授業コンサルテーションなどがあるが、煩雑になるので割愛した。

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