中部大学教育研究20
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然として結構な割合で存在している。我が国の高等教育界にも影響を与えたBonwell&Eisonによるアクティブ・ラーニングの定義は、「学生をなんらかの作業に参加させ、しかも自身が遂行している作業の意味や目的について考えるように促す教育的な活動」と翻訳された。原文に使役表現は見当たらないのに、教員を主語、学生を目的語とする使役表現として翻訳したのは教育パラダイム的な発想に基づいているからと判断せざるを得ない。そればかりか原文においてアクティブ・ラーニングを「教育的活動」、即ち教員の営みと捉えている点で、この定義自体が教育パラダイム的発想に基づいた定義であると言わざるを得ない。“Withinthiscontext,itisproposedthatstrategiespromotingactivelearningbedefinedasinstructionalactivitiesinvolvingstudentsindoingthingsandthinkingaboutwhattheyaredoing.”(Bonwell&Eison1991a)6)この恣意的ともいえる翻訳は、後に「アクティブ・ラーニングとは、学生にある物事を行わせ、行っている物事について考えさせること」と、使役のニュアンスをことさらに強調して再構築されている(松下2015)。ここでは明らかにアクティブ・ラーニングの主体が教員であり、学生はその働きかけの客体であると位置づけられている。教育パラダイムにおいて教員が学生を他動詞の目的語と見立てて働きかけることで、受け身の学び(passivelearning)が生じたにもかかわらず、上記の翻訳二例はその反省に基づいていない。何故、このようなことが生じたのか、アメリカにおける「学び」をめぐる定義の推移などを見ながら考えていきたい。1987年に刊行された『優れた授業実践のための7つの原則』(以下、註では『7つの原則』と略記)には以下のような記述がある7)。「学ぶという営みをスポーツ観戦のようなものと同列に捉えてはならない。教室の椅子に座して教員の話に耳を傾け、授業内容を周到に網羅した自習課題への解答を脳裏にとどめおきながら教員の質問に対してすぐさまそれを口にするというような行為によって学生が身につけることなどほとんどないからである。学生は自分が学んでいることについて言葉で語ったり、文字を使って表現したりできなければならないし、それを過去の経験と関連づけ、現在の日々の生活に活用することができなければならない。すなわち学んでいることを自分の糧としなければならないのである。」(ChickeringandGamson1987)Bonwell&Eisonによる定義はこの記述の後半部分に応じるものとして編まれなければならなかった。さらに、その定義は「大学の授業では、学生が自ら作業を執り行い、その作業の意味や目的について自ら考えるということがアクティブ・ラーニングにつながっていく」と要約されるべきであった。教員によって作業をさせられ、その意味や目的を考えさせられるというような文脈では、学生は主体的・能動的な学び手にはなりえないからである。この後、アメリカでは1998年にアメリカ高等教育協会(A.A.H.E.)によって「学び・学習learning」が再定義されていることにも注目する必要がある。「学習とは学習者が能動的に意味を探求する営みである。知識を受動的に得るのではなく、それを構築する営みである。その知識は経験によって形作られるものであると同時に、これから先の経験を構築していく基となるものでもある。」(AmericanAssociationforHigherEducation(A.A.H.E.),et.al.,1998)ここではアクティブ・ラーニングが教員による教育的活動ではなく、学習者自身による営みとして正しく位置付けられている。我が国における誤った翻訳は、アメリカで繰り返された「学び」の定義・再定義に関するプロビナンスを正しく把握していないために生じたものであろう。ここでアクティブ・ラーニングについて整理をしておきたい。何故ならば、学生の学び(アクティブ・ラーニング)をつつがなく展開していくために大学教員が何をするべきか、そのことを勘案するのが学習パラダイムにおけるFD活動の出発点であり、要諦ともなるからである。まず、語義にしたがえば、それは能動的・主体的な学習、すなわち、学習者の状態・姿勢・動作・態度あるいは習慣を指し示す言葉であり、概念である。これを教授・学習法、すなわち「手法」と捉えるのは手法の行使者である教員の立場からの発想(教育パラダイム的思考)にほかならない。A.A.H.E.の再定義にしたがうならば、学びの主体である学生の立場からみると、それは「過去・現在・未来をつなぐ知識を構築し、意味を探求する営み」として捉えられるべきものである。知識を構築し、意味を探求する主体として学生を捉えるのが学習パラダイムの正しい発想である。これを教員の立場から見ると、「学生を能動的・主体的な学習者へと育てる営み」として捉えることができる。BarrandTaggは学習を創発するための方法・手法が新たに開発されることになると記しているが、学生のアクティブ・ラーニングを実現するための方法に創意工夫を凝らすのが教員の新たな役割なのである。ここにようやく学習パラダイムにおける学生と教員との関係を理解することができる。(三浦2019)中部大学教育研究No.20(2020)―4―

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