中部大学教育研究20
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考えなければならない。我が国では2000年に文部科学省高等教育局から「大学における学生生活の充実方策について(報告)-学生の立場に立った大学づくりを目指して-」(廣中レポート)が出された。そこでは教員の研究に重点を置く「教員中心の大学」から、多様な学生に対するきめ細かな教育・指導に重点を置く「学生中心の大学」へと視点の転換を図ることが重要であるとされている4)。さらに報告書の冒頭には「大学における主役は教授研究を行う教員であり、学習する側である学生が常に脇役であり続けた」と書かれているが、パラダイムシフトによって主役と脇役が入れ替わると考えるのは早計である。学びの苑である大学において、学習者である学生が学びの主役として中心に据えられるのは当然のことであるが、その学生に対してteachingしかおこなってこなかった、あるいは適切なteachingをしてこなかった教員に、新たなミッションが課されることがパラダイムシフトなのである。では、その新たなミッションとは如何なるものなのだろうか。従来の教育パラダイムにおいては、教員が教えれば学生は学ぶということが暗黙の前提とされていた。しかしながら、「他の学生と言葉や意見を交わすことなく、静粛に学ぶようにと昔から諭されている」学生は、大学の講義室では「他の学生と意見交換をしたりすること」が「叱責の対象にされることはあっても評価されることは皆無に近い」(LymanandFoyle1990)ため、「他の学生と言葉を交わすことがない状態を当然のことと捉え、意見を共有することには抵抗を感じている。ディスカッションにいたっては少数のモチベーションの高い学生に任せておけばよいとさえ思っている。」(Lyman1995)というように、そこに学生の主体性、能動性が観察されることはなく、学生は受動的な聴講者として静謐を保つべき存在とされていた。つまり、教員が教えれば学生は学ぶのではなく、ただ「教えられる」存在に留まり、能動的な学びは実現されなかったのである(表2)。なお、しばしば用いられる「受動的な学び(passivelearning)」という撞着語法的な表現は「教えられていること(beingtaught)」を表現するものと考えてよい。高等教育機関の使命をteaching(の提供)からlearning(の創発)にシフトするためには教員の役割を改めて考え直す必要がある。“Fromteachingtolearning”のパラダイムシフトにのっとって、表3の学習パラダイムにおける教員の役割と態度を示す欄に何を該当させるのがよいのか、これを思料することがアクティブ・ラーニングを実現するFDに不可欠なことである。ここに「態度」を加えたのは、学生が「受動的な聴講者から主体的な学習者」へ、つまり受動態から能動態へと移行するのに対し、教員のそれはどのように変化するのか、あるいは変化しないのか、そのことについても考える必要があるからである。なお、ここにおけるlearningはbeingtaught(passivelearning)に対置するものなので、activelearningの意味を帯びていると考えるべきである。BarrandTaggのエッセイでは、新しいパラダイムにおける教員のミッションは「学習環境のデザイナー」「学生間のチームワークを構築するコーチ役」「共に競技に参加するプレーヤー」として位置付けられていた。これらを総じて表現するならば、学生の学びを支援するassistantあるいはsupporterとしての役割が期待されるゆえ、表中に記す動名詞としてはassisting(inlearning)が適切である5)。教員のこの新しいミッションが学生の主体的な学びを可能にすると考えられるからである。なお、「態度」については学生の「能動」の見直しも含めて後述する。3アクティブ・ラーニングは学生の営みである極めて遺憾なことに教育パラダイムに軸足を置いたままの大学教員がアメリカにも、そして我が国にも依試論学習パラダイムにおける学生とFDの関係を考える―3―表2教育パラダイムにおける前提と実際表3学生の学びを実現するための教員の役割

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