中部大学教育研究20
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ら学習へ(fromteachingtolearning)」と表現されるパラダイムシフトの意味を丁寧に検討し、理解しなければ、新たな学習パラダイムにおけるFDをデザインすることはできないし、そこに学生の関与を組み込むこともできないからである。また、学習パラダイムにおけるFDが授業法の改善、すなわち教員の営為に留まっていてよいのか、そのことについても検討する必要がある1)。最後に「巻き込む」という他動詞の表現が適切であるか否かということについても思料しなければならない。「巻き込まれた」学生が、果たして主体的に、能動的にFD活動に関与することが可能なのか、そのことを検討し、解決しなければ、効果的なFD活動の展開を望むことはできないからである。以上のことを念頭に置きながら、これまでに積み重ねてきた自身の実践と論考を振り返り、時に引き合いに出しながら、学生とFDとの関係について検討していきたい2)。2「教育から学習へ(fromteachingtolearning)」(パラダイムシフト)の意味1995年に発表された「教育から学習へ-学士課程教育における新しいパラダイム」(BarrandTagg)は、大学を「教育を提供するために存在している機関」として捉える従来の考え方(教育パラダイムInstructionParadigm)に代わって「学習を創発するために存在している機関」として捉える新しい考え方(学習パラダイムLearningParadigm)の可能性と必要性、さらには到来の兆しについて力強く言及したエッセイである。このエッセイを掲載した“Change”の編集長(当時)であり、アメリカ高等教育協会(AHHE)の副会長(当時)でもあったTheodoreMarcheseはパラダイムシフトについて次のように語っている。「教育の目標が変わった。良き教育の証明は学生の学習成果にほかならない。講義だけの教育では十分ではない。講義は学生を受け身にする。学生は自らの知識の創造者になるべきである。そのためには積極性をもって実践による修得をするべきである。…(中略)…自転車の乗り方という複雑なことは、講義を聞くだけでは修得できない。やろうとしなければ決して乗れないのだ。」3)当時の日本はようやくFD活動が広がり始めた時期であり、それがもっぱら「研究から教育へ(fromresearchtoteaching)」と表現される研究至上主義への反省に基づいたものであったことを考えると、そこに彼我の歴然とした差があることを認めざるを得ない。この新旧のパラダイムがそれぞれ重視するものをいくつかの項目について簡単にまとめた(表1)。従来の「教育パラダイム」においては、大学の使命は教育を提供することにあり、その使命が果たされたかどうかは提供された教育のクオリティによって判断され、学生に与えられる学位は一定量の教育を受けた証であった。知識は教員によって伝達されるものであり、それはかなりの大きさを有する「かたまり(chunks)」として学生に外在するものとされていた。教員は知識伝達システムにおいて中心的な位置を占める存在であり、学生にとって未知の知識を扱う賢人を演ずる孤高のアクター・アクトレスであった。新しい「学習パラダイム」では、大学の使命は学習を創発することにあり、その目的を実現させるために方法・手法が新たに開発されることになる。使命がつつがなく遂行されたかどうかは学生が実践・体験した学習のクオリティによって判断され、学位はそのようにして知識やスキルを得たことの証となる。知識は教員の独占物ではなく、学習者が自らの経験を基盤として発見・発掘し、構造化し、獲得していくものである。つまり学習者は知識の創造・獲得プロセスの主体者として位置付けられる。教員は学生が効果的な学習を体験できるように配慮する環境デザイナーであり、学生間のチームワークを構築するコーチ役であり、時に共に競技に参加するプレーヤーでもある(三浦2011)。このパラダイムシフトをteachingの主体(教員)からlearningの主体(学生)へという主役の交代、あるいは教員中心の大学から学生中心の大学への変化と捉えるのは極めて皮相的である。そしてその過ちは我が国において生じやすい(あるいは既に生じている)と中部大学教育研究No.20(2020)―2―表1教育パラダイムと学習パラダイムの比較

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