中部大学教育研究20
11/168

1問題の所在「学生を巻き込むFD」をテーマとする原稿の執筆を依頼されたとき、真っ先に脳裏に浮かんだのは「学生FD」をどう扱うかという悩ましい問題であった。その扱い方が悩ましいのは、大学教育の質を向上するために学生が欠かせない存在であることに間違いはないのだが、「学生FD」にはFacultyを集合名詞の教授団(教員集団)ではなく、抽象名詞の能力と捉えているという誤りが一般にあるからである。大学教育の改善に学生の協力が必要であることは、アメリカにおける初期のFDを牽引したGaffが既に指摘している(Gaff1979)。それより三十年余経過して、ようやく我が国でも「学生の意見を全学的な教学マネジメントの確立のために有効に活用する」必要があるという旨の提言がなされた(中央教育審議会答申2012)。したがって、大学教育の内容や方法を改善するためのFD活動に学生が関与することに異論をはさむ余地はない。我が国ではFDは専ら教授法を改善するための活動として捉えられているが、欧米ではその対象は教授法に限定されない。FDという用語を生み出したアメリカでは、将来の学生数の減少が見込まれるなか、高等教育へのアクセスが激変したために学生の学力水準の幅が広がり、戦後のベビーブーマーが非伝統的な学生としてキャンパスに登場した。そのような状況に対して十分に機能していない教育の改善を大学に迫る学生が登場した。かかる困難な局面を迎え、カリキュラム開発や教育技法の改善のみならず、大学の管理運営の見直しや自己点検・自己評価の必要などをも含む、広範に亘る組織体の改善が求められた(Gaff1978)。これがアメリカにおけるFDの出発点である。研究至上主義(教育の軽視)への反省に基づき、FDにおいて教授内容や方法に重点が置かれるのは当然のことであるが、POD(ProfessionalandOrganizationalDevelopmentNetworkinHigherEducation)は多岐に亘るFDの活動内容を再確認し、より正確に表現するために、FDの他に、ED(EducationalDevelopment)、PD(ProfessionalDevelopment)などの用語の使用・代替を視野に入れている(東北大学高等教育開発推進センター2009、GillespieK.etal.,2010)。我が国でもFDという用語を使い続けるのか、それとも別の用語を使用するのかを検討する必要はあるが、アメリカのFDの原点にある広範な範囲に亘る事柄に「学生を巻き込む」ことが果たして可能であるのか、あるいは適切であるのか、慎重を期して勘案しなければならない。この他に看過してはならないのが、1990年代にアメリカで指摘されたパラダイムシフトである。「教育か―1―試論学習パラダイムにおける学生とFDの関係を考える―中動態としての関わりを求めて―三浦真琴*1要旨黎明期より学生の協力が不可欠とされてきたFD活動は、学習パラダイムにおいては、その在り方を再検討する必要がある。教育の軽視に対する反省から生まれた教育パラダイムでは、もっぱら教員のパフォーマンスの改善がFD活動の旨とされたが、学習の創発を高等教育機関の使命とする学習パラダイムでは、学生のパフォーマンスの向上-アクティブ・ラーニングの実現-を目指さなければならない。アクティブ・ラーニングの主語は学生であるが、その営みは教員による使役の結果ではなく、学生自身の強い意志の存在を前提とするものでもなく、気が付いたら自然に学んでいたという状態(中動態)を目指す必要がある。同様に、新しいFD活動も教員による強い働きかけによってもたらされるものではなく、気が付いたら教員と学生が協力して学習の創発を目指すものであることが望まれる。キーワードパラダイムシフト、学習パラダイム、中動態*1関西大学教育推進部教授

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る