中部大学教育研究18
80/122

7SakiTaroMurayamaここで時代を19世紀まで遡ろう。英語の時代区分では、近代英語にあたる。19世紀初頭、1804年にオハイオ大学が設立される。1828年にはNoahWebsterによりAnAmericanDictionaryoftheEnglishLanguageが上梓される。この頃から、アメリカでの英語が、イギリスの英語と袂を分かつことになる。19世紀も終わろうとしている頃、オハイオ大学に初めての日本人留学生がやってくる。その留学生の名はSakiTaroMurayamaといった。1895年のことである。日本では明治時代であり、その25年ほど前には岩倉使節団がアメリカにも派遣されている。1895年1月24日のTheAthensMessengerandHerald(アセンズの新聞;写真8)に、Murayamaの記事が掲載されている(この記事も、AldenLibraryのマイクロフィルム・セクションで見つけた)。その記事によれば、Murayamaは、電気工学を学びにオハイオ大学にきており、アメリカ人のような服装であったが、容姿は典型的な日本人だったそうである。SakiTaroMurayamaのことは、言語学研究科主任のThompson氏から伺った。彼が見つけた、Murayamaと友人の写真が研究科事務室に飾ってある。今回派遣されるまで、Murayamaについては全く知らなかったのだが、日本人で初めての留学生と聞き、興味が湧いたので、滞在中、少し情報を探してみた。AldenLibraryにも資料が保管されていたが、それらはThompson氏もご存知のものであった。そこで、インターネットで検索してみると、オハイオ大学の同窓生の名簿が見つかり、SakiTaroMurayamaの名前が書かれていた。その情報から、当時の赤坂出身であること、誕生日が筆者と同じであることが分かった。もちろん同じ年に生まれたわけではなく、ちょうど100年前であった。中部大学出身というわけでもなく、同郷というわけでもないが、誕生日が同じということで、いささか運命を感じ、さらに興味が増した。Thompson氏は、Murayamaの子孫を見つけて、オハイオ大学に招待したいとおっしゃっていた。どのように探せばよいのか、まだ見当もつかないが、長期的にThompson氏と協力し、探してみようと考えている。個人的なことではあるが、時間と場所を超えて、オハイオ大学とは結びついているのかもしれない。8おわりに今回の派遣を通して、オハイオ大学でたくさんの人と知り合い、親交を深めることができた。中部大学や英語英米文化学科としても、お互いの繋がりを密なものにし、今後の交流も、さらに発展していくものと考えている。また、うれしいことに、短期間の滞在であったが、研究室のプレート(写真9)を作成してくださった。写真9研究室のプレート謝辞オハイオ大学交換客員教授としての派遣に際し、中部大学並びにオハイオ大学の関係者の皆様には多大なご高配とご協力を頂戴いたしました。この場をお借りし、心から感謝の意を申し述べたい。特に、多忙な中、面談してくださったオハイオ大学学長のDr.M.DuaneNellis氏、渡航や滞在の際、お世話してくださった国際交流センター長のDr.LornaJeanEdmonds氏、オハイオ大学での受入担当教員であった言語学研究科のDr.ChristpherThompson氏(第42代三浦幸平客員教授)には、厚く御礼申し上げたい。―68―中部大学教育研究No.18(2018)写真8TheAthensMessengerandHerald(1895年1月24日号)

元のページ  ../index.html#80

このブックを見る