中部大学教育研究18
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性について知識を得ているが、この作品は西部のサンフランシスコを舞台としている。登場人物は中国からアメリカへ移民した女性たちと、そのアメリカ生まれの娘たちであり、この作品を通して、学生は初めてアジア系アメリカ人の体験を学ぶことになる。このように、『ジョイ・ラック・クラブ』はこれまでの作品では扱われていない西部を舞台にしている。また、アフリカ系アメリカ人とは別のマイノリティであるアジア系アメリカ人の経験を描いている。このことが、アメリカの地域性と民族の多様性を示すのを念頭に置いた本講で、この作品を教材として取り上げる理由である。『ジョイ・ラック・クラブ』を歴史的な観点から見ると、物語で描かれる四組の母娘のうち、母親たちが中国からアメリカへ移民してくるのはいずれも1940年代の後半で、彼女たちはサンフランシスコに定住する。物語の結末はそれから40年後の1980年代後半が舞台となっており、娘たちは30代の後半である。偶然にも、母親たちがアメリカに到着するのは、ちょうど『カラーパープル』の物語が結末を迎える時代に当たる。履修生たちはひとつのマイノリティの物語の終結を見た後、それに引き続く時代の別のマイノリティの物語を学ぶことになる。講義では、東部のニューヨーク港へ到着したヨーロッパ系移民とは別に、大陸横断鉄道建設の労働力となった中国系移民や、その後の日系移民などが太平洋を渡って西部へ到着した史実を解説する。このように、本作を手がかりとしてアメリカの移民史を概観できる点も、『ジョイ・ラック・クラブ』を教材として採用する理由の一つである。『ジョイ・ラック・クラブ』では、一人の主人公の成長が描かれるというより、母親と娘がどのようにして世代間の文化の違いを乗り越え、相互理解にいたるかという点が強調されている。母親たちはそれぞれの事情は異なるが、男尊女卑の因習に満ちた祖国を捨て、「自由」と「可能性」を求めてアメリカの地を踏む。そして、彼女たちは自らの希望を各々の娘に託し、娘の成功をひたすら夢見る。その意味で、この作品は中国系移民の母親たちが「アメリカン・ドリーム」を希求する物語であり、受講生は『グレート・ギャツビー』とは違う形の「アメリカン・ドリーム」の物語をここで学習することになる。このように、本作を教材に選択することにより、アメリカ文学の重要テーマである「アメリカン・ドリーム」について連続して考察できる点も、『ジョイ・ラック・クラブ』を本講で取り上げる根拠の一つだ。『ジョイ・ラック・クラブ』を本講のシラバスに加えるべきだと考える最後の理由は、この作品がアジア系アメリカ人を扱っているからである。主人公をはじめとする登場人物は中国系アメリカ人であるが、彼らのヨーロッパ系アメリカ人とは異なる感受性や行動パターンは、私たち日本人にも共通するものだ。彼らはヨーロッパ系アメリカ人と比べると、考えていることをストレートに言葉にできず、過度の自己抑制や他者優先からくるコミュニケーション不全に陥る。こうした異文化間コミュニケーションの齟齬は家庭内の母親と娘の間にも存在する。合理主義の娘は、母親を中国的な迷信の世界に生きる存在と認識し、その外見や強いアクセントがある英語を「恥」と感じる。一方、母親は娘に中国的な「知恵」を授けられず、娘から「恥」だと思われていることを嘆く。このように、『ジョイ・ラック・クラブ』では中国系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人の間のコミュニケーション、そして家庭内の母と娘の間のコミュニケーションという二つの異文化コミュニケーションが描かれている。本作を学ぶことにより、受講生は欧米人とは異なるアジア人としての自らの言動パターンを認識し、どのように異文化と向き合うべきかという考察の機会を得るはずだ。この点も『ジョイ・ラック・クラブ』を本講の教材として採用する大きな根拠となっている。5まとめ本稿は英語英米文化学科の学生を対象に、アメリカ文学を教える科目の「英米の文学B」において、筆者がどのような考えに基づいて、どのような作品を取り上げているかを報告するものである。本稿ではまず何がキャノンかというアメリカ文学をめぐる論議について言及した。アメリカのアカデミズムでは1970年代以降からキャノンの見直しが盛んに行われるようになった。これはアメリカ社会の変化に起因するものだ。1960年代に盛り上がりを見せた公民権運動はその後の女性や他のマイノリティの解放運動へと発展する。やがて、政治的公正性の概念が大学のカリキュラムにも影響を与え、ほとんど白人男性作家の作品のみで構成されていたアメリカ文学のシラバスに、それまで顧みられなかった女性や少数派の作品が取り上げられ始める。こうしたアメリカの風潮は日本のアカデミズムへも及び、日本の大学でもアメリカ文学のキャノンの見直しが行われるようになる。だが、アメリカでそうであったように、日本においてもキャノンの見直しは政治的公正性に傾き過ぎていて、不寛容だとして、キャノンの見直しを再検討すべきとの意見も聞かれる。キャノン見直しに関する筆者の立場は、文学を通して文化を学ぶという英語英米文化学科における文学の授業の目的に鑑みて、チャールズ・テイラーの説く多文化主義に拠っている。それは、多文化社会にあっては少数派民族の差異を否定して、多数派への同化を促―22―中部大学教育研究No.18(2018)

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