中部大学教育研究17
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を自分から簒奪したように、この島をキャリバンから奪ったのである。最近のポストコロニアル批評によって、プロスペローは全能者、あるいはシェイクスピア自身と目される高い地位から「簒奪者」という地位に転落させられている2)。こうしたポストコロニアリズムの視点に基づく主題の解釈を示す際も、学生に原作と映画の比較をさせることが不可欠となっている。では、原作と映画の決定的な相違点とは何なのか。そこに学生の意識を向けさせることが大切で、そのことにより、彼らはポストコロニアリズム的な主題の解釈を見出し始める。では、実際のところ、この映画が原作と決定的に異なる点はどこかといえば、それは物語の結末でプロスパーがキャリバンに対して、彼の所有地を自らが簒奪したことを認めて謝罪し、その土地をキャリバンへ正式に返還する点である。こうして、映画では主人公のプロスパーが自分を陥れた敵を許すと同時に、自らの罪も認めて謝罪するのである。この主人公の言動はこの映画が製作された当時のアメリカの社会的・文化的風潮と一致するものである。つまり、主人公プロスパーの行動はアメリカで1980年代頃に始まり、1990年代には広く社会に容認されていたpoliticalcorrectnessという概念にそったものなのである。ここで、学生に対してpoliticalcorrectnessについて説明する必要が出てくる。手元にある小学館の電子辞書『デジタル大辞泉』によれば、politicalcorrectnessとは人種・宗教・性別などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を用いることで、アメリカでは、差別や偏見のない表現は政治的に妥当であるという意味で使われるようになった。黒人をアフリカ系アメリカ人、ビジネスマンをビジネスパーソンと表現するのは、その例である。日本語でも、看護婦・看護士を看護師、保母を保育士などと表現するように改められたことが、これに相当する。言葉の問題にとどまらず、社会から偏見や差別をなくすことを意味する場合もある。日本語への翻訳では政治的妥当性などと訳される3)。この説明の後、原作では空気の妖精のエアリアルが映画では黒人奴隷であること、そして原作では邪悪な化け物のキャリバンを映画では白人が演じていることの意図を、学生たちに問う。すると、この映画がポストコロニアリズムからpoliticalcorrectnessへと至る視点に基づいて演出されていることに、彼らは次第に気づいていくのである。このようなポストコロニアリズムによる主題の解釈について、シェイクスピア研究者の反応はさまざまである。例えば、井出新は、近年、文化的に織り上げられたテキストとしてのシェイクスピアが高い精度で研究され、作品群の社会性や政治性が詳らかにされていることについて、一定の評価を与えながらも、全面的に賛同しているわけではない。井出は、確かにテキストは必ずしも安定したものではないので、批評的に読まれてしかるべきだとしながらも、シェイクスピアの人間性に、そして同時代人たちがシェイクスピアに対して抱いた愛着や敬慕に、光が当てられることの殆どなくなってしまったことを嘆く。そして、作品を批評的に読むことと、作品に他者の知性を見出し、愛情や尊敬を持って読むこととは、必ずしも矛盾しないとして、前者のような読み方よりも、むしろ後者のような読み方の重要性を説く4)。井出の主張も十分理解できるのだが、この授業でポストコロニアリズム的な主題の解釈に触れる意味は、文学作品にはいくつもの読み方が可能であり、たった一つだけの正しい読み方というのは存在しないと学生たちに示すためなのである。そして同時に、テキストの読み方は読者の手に委ねられていることを理解させるためなのである。そのことを教えるのに、このアメリカ映画と原作との違いを比較させることが欠くべからざる手段となっているのである。勿論、この映画の中に原作から取り上げるべきすべての問題点が盛り込まれているわけではない。物語の舞台を南北戦争の頃のアメリカ南部と翻案化したことにともない、映画ではストーリーの簡略化が避けられないものとなっている。したがって、例えば、原作におけるプロスペロー自らが演出する、ミランダとナポリ王子ファーディナンドとの婚約へのプロセスは描かれていない。映画では、ミランダはプロスパーの領地へ紛れ込んだ北軍の傷痍兵士と出会い、彼を看病しつつ恋に落ちるという話になっている。原作のテキストに注目すると、プロスペローがミラノ公国回復のために、娘を政略の手段として利用しているというフェミニズムからの読み方も浮かび上がってくるが、映画ではミランダの婚約に至る詳細は描かれていないのである。このような映画における欠落部分を指摘しつつ、授業では多様なテキスト解釈の一環として、この父娘関係についても言及している。このようにして、作品の主題についてのさまざまな読みの可能性を、学生たちに認識させているのである。6まとめ本稿は英語英米文化学科の学生を対象に、イギリス文学を教える科目の「英米の文学A」において、筆者の行っている授業を報告するものである。英語英米文化学科の学生たちは英文学を専攻しているわけではなく、英語圏の文化の一端としてイギリス文学を勉強するのだが、その際にぜひシェイクスピアを学んでほしいというのが筆者の心からの願いなので―73―シェイクスピアの世界への誘い

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