中部大学教育研究17
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したシンポジウムで発表した学生たちのように、通常の授業では物足りなさを感じている学生は一定数いるだろう。単位のためではなく、参加するだけでワクワクするような授業を、そのような学生たちのために開きたかった。受講した学生のワクワク感は他の学生にもきっと良い影響を与えるにちがいない。これについては、オリエンテーションのときに、ハイブリッド・プロジェクトの授業を「議論が多く、有益な授業だが負担が多い」と説明することによって、ある程度覚悟のできた学生を募ることにした。別の教員から、「1年次から2年次にかけて通常に行なわる予定の演習系ゼミ(スタートアップセミナー、国際基礎演習、国際応用演習A、国際応用演習B)と重ねてはどうか」という意見もあったが、これらの演習系ゼミは必修科目なので、同様の理由で、ハイブリッド・プロジェクトはむしろ自主的に選択できる状態にする必要があった。ハイブリッド・プロジェクトの成否は、いかに教員が熱く議論を語れるか、いかに教員が学生を唸らせるコメントや質問を披露できるかどうかにかかっていた。学生の発表に教員がしたり顔でコメントするのに終始する授業にだけはしてはいけない。そのため、教員が安全地帯にいてはいけなかった。教員が当事者になる必要があった。私が考えたのは、授業最後に「今日は誰の発言にもっとも興味をもったか。その理由は何か」という感想レポートを取ることである。少し競争原理を導入してみたのだ。「今日の議論のなかで興味をもったことを書きなさい」という中立的な文言に変えてはという意見があったが反対した。この感想レポートは受講する学生だけでなく、参加した教員にも書いてもらい、翌週にすべての感想レポートをコピーして全員に配布し、先週の誰の意見がもっとも多くの参加者の興味を惹いたかが一目瞭然になった。教員であることも、学生であることもあった。また、その感想レポートから議論が再燃した。同様の理由で、学期末に学生に課すレポートは、教員にも書いてもらった(これらのレポートは近々、国際関係学部HPに掲載する予定である)。議論において教員は学生に遠慮することはない代わりに、課題において学生と同じ義務を負う。その意味で、ハイブリッド・プロジェクトは学生も教員も立場は対等であるし、あるべきだ。対等であるので、先に生まれて研究をしている教員が多く発言することになるのは当然のようだが、発言する楽しさに触発されるのか、それとも意外に先生方もたいしたことを言わないと気づいて気楽になるのか、学生もどんどん発言するようになっていった。7おわりにハイブリッド・プロジェクトは、予想以上の成果をあげることができた。学生のみならず、教員も満足する授業となった。授業を始める前に不安を抱いていた教員も多かったが、杞憂に終わった。これが単なる幸運か、うれしい現実かは、今後のハイブリッド・プロジェクトの進展具合による。しかし、大きな可能性をもった授業であることは確かであろう。具体的にどういう可能性があるかは別稿に譲るが、複数の教員が担当する意味は大きい。資源(頭脳)の有効活用というシェアリングの精神が生きている。あたたかな知の共同体のなかにいて「一人じゃない」と思える感覚は今こそ必要である。ハイブリッド・プロジェクトは国際関係学部ならではの特徴が生かされた授業である。さまざまな学問分野を背景にもつ教員が存在することによって可能になった授業である。これは、大きく言えば、現在、多様な価値観をもった人々と生きていく私たちにとって、ひとつの視座を与えるものとなるだろう。―51―ハイブリッド・プロジェクト始動!

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