中部大学教育研究13
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はじめに連載も当初の予定を超えて6回目となった。異例の長い連載を許していただいたことに深く感謝したい。今回は戦後を迎える。敗戦直後の時期から大学・教育の改革期を経て占領状態が解除されるまで―1945年から1952年あたりまで―の間に、「大学の本質はそもそも何か」という問いに対して、どのような答えが準備されただろうか。今日確かめうる点、あるいは確かめておくべき点は何だろうか。それらを記して、連載を一応終わりとしたい。Ⅰ敗戦直後の大学と大学本質観出発点としての三つの原理第二次世界大戦後の大学本質観は、大学の本質的機能は「教育」と「研究」にあるという帝国大学発足期以来60余年の間に移入した基本理解を受け継ぎ、その理解が実現するためにはアカデミック・フリーダムの存在が不可欠であることをあらためて確認し、その延長上に、旧帝国大学令及び大学令が持っていた国家原理については完全に否定する、という三つの基本原理を承認するところから出発した。は最も異論の少ない原理であった。「学校教育法」は、この原理に沿って、大学の職務を「広く知識を授けるとともに深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」と定めた(1947年3月)。それと併せて大学令の第一条にあった「国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」という文言は消えたし、同じく第一条にあった「国家ニ須要ナル学術技芸云々」という文言ももちろん消滅した。即ち上記のとは、法令上、同時的かつ並行的に実現した。は、外部勢力や政治的圧力によって大学および教授(会)の自律性と自立性が損なわれることを避けるべきだという原理であった。しかしその反面には、教育・研究という大学固有の責務と、社会からのニーズないしは貢献要求との関係をどのように調節するか、さらに大学の「自由」と社会的役割との関係をどのように築いて行くかという深刻な課題を含んでいた。言いかえれば、は、戦後の日本の大学関係者が戦時下の痛切な経験を経て改めて自覚させられた原理であったが、未来に向けて新たな葛藤をも含んでいる課題であった。この課題は、占領下では、特に「大学と地方・地域との関係をどのように設定するか」という厳しい問いとして浮かび上がる。本論の後半で、焦点を当てて葛藤を整理しておこう。なお、筆者は上記の時期の大学およびその周辺の状況について、これまで幾度か研究書の刊行や資料収集に当たってきた。文末の「文献注」を参照いただきたい。反省と自覚「敗戦直後」というのは、主として1945年8月半ばから翌46年4月までを指すことにしておこう。始期が8月15日の「玉音放送」であるのは言うまでもないが、終期は第一次アメリカ教育使節団の報告書が連合国軍総司令官マッカーサー宛てに提出され、その訳文が全国に普及した時期に当たる。これは教育問題に特有の時期区分だと思われるが、高等教育や大学問題を考える際には有効であると思う。この時期、大学は大きな変動に直面していた。戦時下に治安維持法違反その他の思想問題で大学を追われていた教授たちの「学園復帰」がいくつかの大学で行われたが、一方、理事・学長や学部長などの戦時下における軍国主義的言動に対する抗議活動、物資横流し等の汚職への糾弾、そして講義内容への批判等が噴出し、その発展として、学園騒動が各地で起きた。占領軍当局はそれを弾圧せず、むしろ奨励した。他方、有力大学には占領軍が乗り込んで研究施設を破壊するような措置も見られたし(東京帝国大学のサイクロトロン設備の破壊など)、マッカーサーは、キリスト教主義に立つ大学・学校の戦時下における軍部への協力の実態を調査するよう文部省に命じ、当面は立教大学の役員等に直接辞任を命じるという措置を取った。要するに、この時期は、大学に対して、占領軍によって禁止的措置(negativemeasures)が、次々に取られていった時期であった。―1―中部大学教育研究№13(2013)1-8近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたかWhatistheideaoftheuniversity?-historicalchangeoftheanswersinModernJapan寺﨑昌男

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