中部大学教育研究13
16/148

教員への権限委任の重要性を強く説きながら、第二次報告書では「地域の要求」の無媒介的な受け入れを勧告した。そしてその傍らで、文部省を通じて総司令部から法案の要綱が出されるという手続きそのものも、いたずらに日本側の反感、反論をあおったというほかはない。結び大学は地域の中にあり、その意見を組み込んで運営されるべきだ、という今や当然とも見える大学本質観が、戦後初めて紹介され、しかも当時は、結果において拒斥された。この本質観の背後には、「大学は社会のニーズに応えるという責務を持つ」という、より広いテーゼがあった。それは、「研究の自由」と「大学の自治」という両義を持つ「アカデミック・フリーダム」に対しては緊張的な関係に立つものであったが、占領下のこの時期には、日本の大学関係者は、もっぱら後者を守ることに専念した。しかしその後の大学史の流れは、前者の「社会のニーズ」は一方でもっぱら産業界の人材ニーズに集中して理解され、「地方・地域のニーズ」についての関心ははるかに弱かったといえるのではあるまいか。「大学は社会的制度である」という規定が中教審答申に出てきたのは1960年代の初頭であったが、それは高度経済成長下に大学が産業需要と深く結合することの予言に近いものであった。それに比べると、「大学と地方・地域の関係」を予言ないし重視する言葉はいつから使われ始めたのか、はっきりしない。「地域への貢献」というタームが大学評価にしばしば使われるようになったのは、COE(CenterofExcellence)と俗称された文科省の奨励事業が開始された2000年代初めからではなかったろうか。それ以前、日本にも地域と大学をつなぐ動きが皆無だったのではない。しかし全大学(人)の共通観念になってからまだ日は浅いというべきであろう。だが今やアメリカだけでなく、西欧の大学の学長も「コミュニティーと大学の関係をいかに作るか」を論じるようになった。これを、新しい、しかし緊要な課題として、大学の本質観に組み込むことが求められている。(注)本論に関係する筆者の著述について本文で触れた事実について、寺崎は海後宗臣との共著『大学教育』(戦後日本の教育改革9、1969年、東京大学出版会、近く復刊予定)で記している。また敗戦直後の新聞社説を含む論説の主要なものは、編著『戦後の大学論』(1971年、評論社)に収録した。参照を乞いたい。また大学基準協会の沿革と活動については『大学基準協会五十五年史』(通史編・資料編、2005年、同協会)の監修に当たり、教育刷新委員会については『教育刷新委員会・教育刷新審議会会議録』(全13巻、1995~98年、岩波書店)の編集代表者に加わった。明治以後の日本においても、公立大学・専門学校・高等学校の設立に関連して地方・地域と大学等との関係が考察されてきた。その歩みを展望した論文として拙稿「近代日本における大学と『地域』『都市』-情報と模索をたどる試み」(「大阪市立大学史紀要」第5号、2012年10月)がある。立教学院本部調査役、東京大学・桜美林大学名誉教授元中部大学客員教授―8―寺﨑昌男

元のページ  ../index.html#16

このブックを見る