中部大学教育研究13
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口の及ばなかった宮城県は外れた。このことは20年後に東北大学からの宮城教育大学の分離という事態を招くことになるのだが、それは後の事である。このような例外措置を含みながらも、1948年という時点で、近代日本高等教育史上空前の大学再配置が実現したのである。大学理事会法問題(大学管理法問題)「1948~49年」占領軍当局を介し、大学問題を正面に据えながら「地方・地域と大学」の関係を問い、戦後最も大きな争論を引き起こしたのは、1948年から49年にかけて起きた「大学理事会法問題」であった。それは「大学法試案要綱」(以下「要綱」と記す)という名の翻訳文書として、文部省から発表されたが、CIEから渡された文書の訳であることは明瞭であった。大学と地域の関係に絞ってみると、その中心部分は、各大学内に管理委員会(GoverningBoard)を置いてこれに広範かつ決定的な権限を与え、その構成を「国家代表3名、府県代表3名、同窓会代表3名」のほか、わずかに教授代表3名と学長(それは管理委員会自身によって解任されることがある)が加わるだけ、という構想であった。委員会のこの権限に比べ、教授会は、学長その他専門職員の推薦、入学・卒業資格の決定、入学許可学生数についての答申、カリキュラム・教授法について方針の決定、その他学生指導関係の事項に関する方針決定等の権限を持つに過ぎず、学長、学部長、専任職員(教員を含む)の選任と雇用期間の決定は、すべて管理委員会に帰属することとなっていた。この案は、上記のようにCIEから文部省を経て発表されたものだったが、大学側の強い反対を引き起こした。国立総合大学総長会議は「わが国の大学の長所と伝統を破壊」する案だとし、「若し這般大戦中、かかる理事会組織が大学内に在ったならば戦時中不十分ながら吾々の守り来った大学の自由も、夙に時代の勢力の前に犠牲となってゐたであらう」と論じた。同様の危険は現在もある、とも付け加えている。このほか諸大学の評議会、教育刷新委員会、日本学術会議、日本教職員組合、そして結成されて日の浅かった全日本学生自治会総連合(全学連)も、それぞれが対案を提出するという方法で、この要綱に反対した。その詳細を記す必要はない。ただし次のことは確かめておきたい。すなわちこのときの論議の重点はあくまで教授会の権限の範囲如何という点に置かれていたこと、要綱が中央に置くと定めた中央審議会については、その権限・構成などはほとんど問題とならなかったこと、の2点である。言い換えれば、伝統的大学の自治と教授会の関係如何がもっぱらクローズアップされた。その結果、要綱が粗雑な形で提出した、大学運営と「民意」の連携をどうとるかという課題は、はるか後景に押しやられる形になった。その後の大学管理法問題以上の要綱は、もともと「大学管理法」の立法を目指していたにも関わらず、あまりの反対の強さのために遂に立法には至らなかった。その後、文部省は大学管理法の1950年の国会への上程を目指して、大臣諮問機関として「国立大学管理法案起草協議会」を組織し、民法学の権威であった東京大学教授・我妻栄を委員長に迎えた。この委員会はその後公立大学管理法の起草も手掛け、両法案およびそれらに関する諸法律の整理に関する法案の3法案は、1950年から51年にかけて、第10,11,12国会で継続審議された。しかしついに決議には至らず、最終的には審議未了、廃案となった。国会から参考人も招聘され、長時間の審議が交わされたこれらの法案の意義や、それに関する意見分布などは今日もなお戦後大学史研究の残された課題となっている。ただし、全体として、この原案作成や国会審議の過程で、従来に比べれば、大学と「外部社会」との関係の在り方がはるかに多く論じられたこと、案の中に「商議会」という、従来の公立大学に存在した伝統的な外部者参加の管理機関が用意されていたこと、しかしその権限は厳格に助言、勧告の範囲に限定されていたことを指摘して置くにとどめよう。「大学と地方・地域」問題のまとめ以上、占領下における「大学と地方・地域」問題を粗雑な形で概観してみた。一言で言えば、この問題は、先に指摘した「社会的ニーズと大学の対応とをいかなる関係のもとに設定するか」という課題の一部であると同時に、戦後日本の大学本質観という観点からは、きわめて重要なポイントの一つである。すなわち、戦後初めて、日本の大学の持つべき本質の一つに「地方・地域のため」という一項が加わったということができる。しかしこれまで触れてきたように、それをめぐる論議自体は、深まらなかった。論点としての価値は高かったにもかかわらず、その提出が「占領」という統治状況のもとで、権力的に行われたからである。当時の大学教員たちにとっては、国家主義・軍国主義のニーズを持って大学に迫った軍部・政府の圧迫の体験はあまりに鮮明であり、他方、学生たちには、大学管理運営法の起草提案それ自体が「反植民地闘争」の標的となった。他方、アメリカの専門家から成っていたはずの教育使節団にしても、第一次の報告書では―7―近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたか

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