中部大学教育研究13
14/148

て高等師範学校、師範学校、青年師範学校を一挙に地方教育委員会の管理に移譲するという内容のもので、その延長上には内務省、司法省に続いて文部省の解体も組み込まれているのではないか、と推測されていた。そのため日本側としては単なるニュース情報を超えて重大な関心の対象になった。結果から言えば、この報道に対しては教育刷新委員会が緊急審議の上、批判決議を採択した(「大学の地方移譲自治尊重並びに中央教育行政の民主化に関する決議」1947年12月26日)。このころになると、旧帝国大学(官立総合大学)は「移譲」の対象から除くことになると伝えられていたが、それは不可能かつ不適切と批判する決議であった。①来たるべき地方教育委員会の力量では、到底大学の管理を担うことはできない、②従来の日本の大学・高等教育機関は全国的視野に立って配置・建設されており、学生・生徒も全国から入学する仕組みになっているにもかかわらず、その管理管轄を各地に移譲するのは、高等教育配置の「偏頗」を招く、というものであった。構想に反対したもう一つの組織は大学基準協会であった。1947年12月30日に発表した意見書は、①大学を官僚支配から解放することに強く賛成するが、この案の実行は大学の水準向上と大学の自由の確保、大学行政の民主化に貢献するとは考えられない、②日本の大学・高等教育の歴史的連絡性を損なう、③第一次使節団が強く戒めた「アメリカの大学制度の完全な模倣」である、④地方教育委員会が大学の理念、使命を維持向上する能力を持つとは考えられない、⑤同委員会は地方の政治的利害に左右されて大学の自由を阻害する恐れを十分に持つ、⑥地方財政には大学財政の負担能力はない、という諸点であった。教育刷新委員会が「文部省の文化省化」というもう一つの改革構想と抱き合わせにこの問題を審議したのに対し、大学基準協会はもっぱら大学水準の維持と大学の自由という点に絞って対応したという違いはあったものの、当時最も有力な教育政策立案機関であった二つの組織は、両者ともほとんど重なる論点によって反対したことになる。やがてこの構想は全く伝えられなくなった。新制大学の一府県一大学主義(1948年6月)新制の国立大学は、周知のように一つの府県に一校だけを作る、という大原則をもとに認可されて行った。1947年の後半から審査が始まり、48年春に公私立大学13校が例外的に認可されて出発し、国立大学は翌年の1949年の5月末に開設という流れになったのだが、詳細は記すまでもないだろう。これより先き、国立大学設置のための原則は、1948年6月前後に決まって行った。資料的にはっきりしない部分もあるが、最初にCIE側が原則の原案を示し、文部省との間で意見を交わしながら固めていったもののようである。その原案に近い(6月初頭段階?)と思われる条文―英文からの翻訳文であった―を見ると、明らかに「地域」(および都道府県)というものに関して強い関心が払われているのがわかる。少なくとも各都道府県の一大学においては文理科(リベラル・アーツ)と教育科(エデュケイション)の学部が別個に組織されなければならない。一都道府県の住民の高等教育要望は、もし公立(都道府県立または市立)大学の学校がその県内に設立予定の大学と合同するならば、一層有効に充たされるであろう。このような合同は、即時奨励されるべきである。そもそも以上の方針の前提にあった「国立の大学は総合的な形態においては各都道府県一校に限る」という原則そのものが、地域住民の高等教育機会の均等化ないし平等化を意味する措置であった。なぜかといえば、この原則を欠くとすれば、国内各地の有力な帝国大学が近くの高レベルの旧制高等学校や専門学校を独占的に併合し、それこそ高等教育機会の「偏頗」化を生むかもしれなかったからである。上記のの「文理科」提案が「大学の教育課程をリベラライズせよ」という第一次報告書の勧告に沿う大学一般教育の受講保障措置であったことは言うまでもない。また、には、新制中学校発足に伴う教員需要に応じて地域に新卒教員を供給するという大学の責務に応えるために「エデュケイション」すなわち教職課程を独立して設置すべきだ、という明確な要請が含まれていた。は公立大学救済措置ではなく、もっぱら高等教育機会配分のための措置だったとみられる。つまり、これらの構想の背後には、地域社会(コミュニティー)生活の重視というよりも、むしろ地区(リージョン)住民の利益重視というアメリカ的な発想が色濃く流れていた。しかし官立大学・学校を各地の住民の要望に応じて、かつ大学自身の責務の遂行を可能にすることをも考慮しつつ配分・設置して行くというのは、戦前日本の高等教育政策にはほとんどなかった発想であった。それは敗戦と占領が初めて実現させた大学設置原理であった。ちなみに、その後の折衝を経て、新制大学設置の方針は、文部省側で「新制国立大学実施要綱」という文書にまとめられた。その際、人口300万人以上の都府県は「国立大学一校限り」という制約を免れた。北海道、東京都、京都府、大阪府、福岡県、愛知県がそれに該当し、複数の国立大学を置くことができたが、人―6―寺﨑昌男

元のページ  ../index.html#14

このブックを見る