中部大学教育研究13
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各都市またはその他の地方的下部行政区画においては、国民の選んだ一般人によって教育機関が構成されてこの機関が法令に従って、その地方にあるすべての公立の初等及び中等学校の管理を司るやう我々は勧める[以下、市町村教育委員会の設置を提案]。(同上)。教育当局及び税務当局は国家、都道府県及び地方的下部行政区画において夫々なさるべき相対的な補助額を明示すべきである。(中略)学校の経費に合理的な比率は、地方的下部行政区画において設定せらるべきである(同上)。この先の部分になるが、教師教育、成人教育を扱った章にも、地方重視の勧告が頻繁に出てくる。地域を母体とした教師の現職教育活動振興の必要や、地方図書館行政を振興するための「一括的行政機構」の設立、といった勧告である。しかし高等教育を取り上げた章ではどうであったろうか。ここでは不思議なことに、「地方」とか「地域」といった言葉すら出てこない。公立大学について言及してはいるがそれも前述のように官立大学と併せて登場するだけであって、地方・地域の課題とともに公立大学の課題を語る、といったことは何ら行われていない。全体としてこの章を見ると、使節団の関心は大学の復興、全国の青年男女への高等教育機会の開放、学術の国際交流特に欧米の学術情報や成果のなるべく早い導入、といったナショナルな、あるいはグローバルな着目と勧告に終始している。前記のような初等・中等教育や教育行政機関をローカルな要望に対応させようとする勧告とまったく異なる角度から、高等教育の改革問題を扱っているのである。第二次使節団ではどうであったろうか。読み直してみると、第一次報告書の勧告とは著しく異なる下記のような勧告部分があることに気付く。「ある大学を真に特徴づけるのに大いに役立つような独自性は、高等教育機関が直接地域の人々に奉仕することによってじゅうぶん裏付けられ、高められるものである。この活動は、大学拡張教育・社会教育・地域社会教育・学外教育あるいは大学成人教育など、国によっていろいろに呼ばれているが、これを行うためには、高等教育機関は地域の要求を研究し、他の機関で行われていない研究的・教育的、および奉仕的仕事を決定し、さらにまた実行する技術を持っているか、または持つことができうるよう、仕事を選定することが必要である」(「日本はどのような種類の高等教育機関を持つべきか」)。このパラグラフは、前後の文脈から全く飛躍した内容になっている。起草の終わりになって付け加わったのではあるまいか。これに続くのは「このような方向をたどるような教育機関は、如何なるものでも偉大になるほかはない。それは、あらゆる障害にかかわらず、前途に希望をつなぐものであり、優れたものになるであろう」という、訳文にも責任があるかもしれないが、いささか単純稚拙の感すらある文章であった(英文はAnyhighereducationalinstitutionwhichfollowsthiscoursecannotavoidgreatness.Itwillbeforward-lookinganddistinguishedinspiteofallobstacles.)。高等教育・地域・占領行政第一次使節団が報告書でほとんど触れず、第二次報告書においても上記の程度の勧告にとどまった、大学本質観における「地域」あるいは「地方」との関係という視点は、何を通じて持ち込まれたのか。その大部分は,他の教育改革分野と違って、使節団によってではなくGHQのCIE(民間情報教育局,CivilInformation&EducationSection)による占領行政を通じて導入されたと見てよい。その行政が実行されたのは、まさに第一次使節団と第二次使節団報告書との中間の時期だったのである。前記のような第二次使節団の勧告には、それ以前に行われた占領行政を背後からサポートするという意図があったのではないかと推察される。他方、日本側の大学リーダーや関係者側の一部にも、大学の諸活動をその地域の住民のために組織しようという構想や実践が行われていた。この点を考慮しておくことも重要である。たとえば北海道帝国大学は北海道の開発と文化支援を目指して新しいタイプの官立総合大学を建設するという趣旨で新制への転換を図ろうとしていた。金沢の医科大学、第四高等学校、高等師範学校等は北陸帝国大学の設立を要望していた。また、1950年に発足した短期大学は各地で地域の要望に応じた市民向け教育活動を行っていた。このような実態を考え合わせると、上記の勧告は必ずしも実態的背景を持たないものではなかったということができる。さてCIEが行った、地方・地域と関連する行政や構想はどのようなものだったか。それをすべて詳述するには独立の論文が必要である。今は、事典的に概観しておくにとどめよう。地方移譲問題(1947年11月報道)大学行政と地域との関係が露骨に提示されたのは、「大学の地方移譲問題」というかたちで伝えられた占領軍の意向であった。一部の新聞がこれを伝えたにすぎなかったが、地方教育委員会制度の形成動向とも絡めながら、官・公立の大学、高等学校、専門学校そし―5―近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたか

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