中部大学教育研究13
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ていなかったから、その「成果」を判定するには明らかに早すぎる時点であった。従って第二次使節団の報告書にいささか性急な個所があっても不思議ではなかった。しかし上記のような論の運びが語るのは、「大学を論じる際、大学に投げかけられる社会的ニーズとの関わりを抜きに立論することはできず、そのニーズも『国家ノ須要』といった抽象的な文言によってではなく、具体的な職業分野・国民生活との関わりで論じるべきである」という考え方である。「大学本質観の新しい発想様式」と表現してもいいかもしれない。Ⅱ「ニーズ」の展開-特に地方・地域のニーズと大学「進学要求に応える」というニーズところで、大学・高等教育に対するもろもろのニーズの中で、最も大規模な形をとって浮上し、それに対する応え方も最も大規模かつ鮮明だったのは、青年の進学要求とそれへの対応であった。詳述するまでもなく、学校体系に六三三四制を採用し、それによって新制高等学校卒業と大学進学とを直結させる、という改革であった。この改革は、専門学校、旧制高校、大学予科、さらには師範学校、青年学校の廃止という大改変を伴っていた。この基本方向は早くも1946年末には教育刷新委員会の建議の形でまとまり、1947年3月には「学校教育法」によって法制化され、次々に実施されていった。補注)教育刷新委員会は1946年8月に発足した教育改革審議機関。内閣総理大臣の諮問に応じて活動したが、教育基本法の要綱、六三制の採用をはじめ戦後教育改革の重要課題をすべて審議した。本文で後に触れる大学基準協会は46年11月から結成準備を開始し翌1947年7月に発足した大学基準設定のための大学団体である。占領下の大学政策は、実質的にはこの両組織によって決定された。もちろん教育使節団メンバーも高等教育制度の全体的改革のありようについては大きな関心を持っていた。第一次報告書では、「日本の大学制度は、如何なる国の高等教育計画においても普通見られるやうな諸要素を基礎にしなくてはならぬ。そして才能ある青年を常に豊富に供給することが、その計画の中の一つであることは論をまたない。高等の学問へ進む権利のあることが、国民大衆にもまた高等教育を支配する行政機関にも、はっきりと認識されなくてはならぬ」という明確な提言を記していた。高等の学問へ進む(青年たちの)権利と、それを満たした者たちを社会に供給する(大学の側の国際社会共通の)責務の双方が計画化されなければならないことを、的確に指摘したものであった。ところで第一次使節団の団員たちは、先に触れたように社会的ニーズへの対応というテーマに対する関心を極めて強く表明していた。しかし彼らは、単にニーズ一般に応えることを勧告・提案していたわけでない。特に地域の自治が重要であり、そこから芽生える諸要求に応えることが重要であることについて、特段の関心を払っていた。地方・地域の要望と教育一般との関係この意味で注目を必要とするのは、第一次報告書がさまざまな形で地域の要望と公教育の関係に触れていたことである。まず初等・中等教育関係に関して論述している個所を訳文原文のまま一括してあげておこう。[使節団は実行に移すべき数々の事がらを提案しているのだから、今後、総司令部に付属する民間人の顧問を置く必要があるが]、都道府県及び市町村の水準で行われる教育に、現在よりももっと広範囲の自治を与えるやう勧めて居るのであるから、連合国を代表して、専門教育において[名望の高い]民間人の教育顧問が、各都道府県に任命されるやう提言する(序論)。[カリキュラムと学科課程の構成については]ある特定の環境にある生徒が出発点でなければならない。中央官庁が生徒の環境や能力を顧みることなく、あらゆる事情の下に有効であることを保証された、いわば教育の手形のやうなものを発行するならば、[まず聖地の興味から出発するという]前述の原理は踏みにじられたことになる(第一章「日本の教育の目的及び内容」。教科書の選定は一定の地域から出た教師の委員会によって行はれるべきである。日本の教育者達のみがよくこの仕事をなしうるのである(同上)。[学校の管轄問題について二つの改革をすすめる。第一は学校の行政職員は専門性を持つことであり]第二に教育計画の管轄を現在よりもっと分散させなくてはならぬ。全機構の一定の段階において、権力と責任の縦の線を、明確に切断しなければならぬ(第三章「初等及び中等学校の教育行政」。公立の初等及び中等教育の管理に対する責任は都道府県及び地方的下部行政区画(即ち市町村等)に委せらるべきである。[都道府県教育委員会の設置を提言](同上)。―4―寺﨑昌男

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