中部大学教育研究12
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はじめに日本の指導者層は大学の本質的性格をどのようなものと考えてきたか。前号では、大正期後半から昭和戦前期を対象に検討した。その結果確かめられたのは、1)大学の本質的な使命は専門教育と学術研究の双方にあることがますます明瞭に確認され、加えて、教授会の必置原則の明文化、学位授与主体の文部省から大学への移行等を通じて大学の「自治」原則の承認が行われたこと、2)特に学生の自主的学習の重要性に対する関心が明確化し、単位制度の採用、学年制の廃止と学科目選択制の開始、成績表示における素点主義の排除と成績順位公表の撤廃などを通じて、自主的学習への関心が高等教育レベルにおいても確認されたこと、3)かつて内閣部内にいた井上毅さえも批判した「高度の教育(学士称号への教育)の帝国大学による独占」という事態は克服され、府県及び私人の大学設立が公認され、公立大学・私立大学が誕生したこと、4)ただしその機会拡大は男子青年にだけ与えられ、女子青年には及ばなかったこと、5)博士学位の授与権は文部大臣の手を離れて各大学に移行したこと、6)大学成立の要件として「永続性」という社会的属性が加わり、おそらくそれと密接に関連して、大学の設置に関し天皇による「勅裁」という行政手続が付け加えられたこと、等であった。1940(昭和15)年の高等教育状況上記のうち、1)、5)は、大学の自治と権威に関わる改革であった。これらの背後には、ドイツ大学像の決定的な影響が見られた。他方、3)の影響は極めて大きかった。この時期以降、日本の高等教育機関の制度的な類型は、帝国大学、官立単科大学、公立大学、私立大学、官立・私立大学予科、官・公・私立高等学校(三年制と七年制)、官・公・私立専門学校、高等師範学校(すべて官立)というように大幅に「多様化」し、同時に「多層化」した。言いかえれば3)によって、大学を含む高等教育の全体構造は、戦後の改革を受け止めうるような大衆化の第一歩を踏み出した。もちろん戦後改革に当たっても、「多層化」によって温存・確認された高等教育のヒエラルヒー(序列構造)は潜在的に継承され、高度経済成長期には拡大・固定した。しかし、他の言い方をすれば、第二次世界大戦後に日本の大学・高等教育の画期的な大衆化が可能だったのは、大正・昭和期に、前号で示したような広範かつ大規模な制度改革が実現して、さまざまなレベルの高等教育機関が生まれていたからであった。さて戦前の日本の高等教育において最も安定した数量的構成を確かめることができるのは、昭和に入って15年経った1940(昭和15)年である。概況を記しておこう。①大学は総計47校、うち26校が私立、官立は19校であった。校数構成からすれば、私学の比重は、現在より遙かに低かった。ただし学生数は、官立約2万3,000人に比して私立5万2,000人であり、私学の比重はかなり大きかったことになる。②大学予備教育機関であった高等学校と大学予科は、総計64校、両者32校ずつであった。ただし設立主体には大きな差があり、高等学校の場合は32校中25校が官立で、公立は3校、私立は4校に過ぎなかった。これに対して大学予科は32校中私立が26校を占め、官立は4校、公立は2校であった。③高等教育機関中最大の比重を持っていたのが専門学校であった。実業専門学校と私立大学付設の専門部を専門学校の一部として加えると、総計219校、生徒数総計は約13万人余にのぼった。そのうち9万人が私立学校生徒であり、官立学校生徒の3万4000人を大きく引き離していた。女子生徒を含んでいたのは高等教育機関の中ではこの専門学校だけであり、約4万人に及んだ。そのうち97%が私立専門学校に在籍していた。なお、専門学校については、その後の量的拡大―1―中部大学教育研究№12(2012)1-7近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたかWhatistheideaoftheuniversity?-historicalchangeoftheanswersinModernJapan寺﨑昌男

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