中部大学教育研究12
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行して国粋主義的右翼団体や個人からの大学批判が次々に繰り広げられた。この分野の教授達は、先述の通り、自分の専門領域を通じて進んで国策と戦争に協力するか、逆に沈黙を守るか、あるいは「偽装」的行動を取るかの選択を迫られた。これに対して、後者すなわち自然科学系の研究者や大学関係者たちがどのように行動し戦時下の自分の行動をいかに総括しているかについては、全体的・実証的な解明が遅れているという印象を受ける。これまで指摘されたことは、戦後において科学者の責任は「戦争責任」というかたちではなく「敗戦責任」として追求されたこと、戦時下には中等学校の「自然科学組」のような新手の英才教育が行われたこと、小・中学校の自然科学系教科の教科書がめざましく改良されたこと、等の諸点である。大学史研究の重要部分として(できれば比較研究の視点をも持つ)研究課題として、今後検討されるべきテーマであろう。それはともかく、対象時期の間において、大学自身からはもちろん、政府・軍部等からも、大学の研究機関性が否定されたことは全くなかった。また上述のニーズの側からしても、敗戦の時まで、自然科学研究特に軍事科学研究の重要性が否定されることなど、全くなかった。1942,3年段階に入っても、武器・火薬等の研究、熱帯科学・戦陣医学等の、軍事面で必要となった諸分野に関する附置研究所が、官立大学・帝国大学には次々と新設された。それらは戦後、占領軍によって多く解体されたり、また大学自身によって改編されたりしたものの、先に述べた二つの領域間のアンバランスは、拡大の一途を遂げつつ、戦争の終結を迎えた。終わりに以上、前号に続く時期の大学本質観を概観してきた。この期間、大学・高等教育は「機関」としてみればかつてない拡大と「多層化」を迎え、さらに大正末期・昭和初期の高等教育拡大政策を経て戦前最大の量的拡大を迎えていた。戦後日本は、この「多層化」を大学の「多様化」とし、さらに学習と研究の機会を「主権者としての国民の権利の一つ」という観点のもとに拡大する、という課題を負うことになる。ここでは、上記のような状況の下、大正期に確認された近代的な大学の理念とドイツ風の大学観とが、少なくとも制度的にはほとんど変化せず、大学にいたっては法令(勅令)の目的規定すら変わらずに存在し続けた、ということを確かめておこう。また、そうした存在の仕方は、戦争のニーズと外部からの政治的圧力にもかかわらず保持された、ということも、記しておこう。この時期の大学の歴史を正確に、そして全体として明らかにするには、制度面からの研究だけでは到底足りない。膨張と緊縮に満ちたアンバランスを経験した大学財政史の探求、高等教育・大学に関して政策主体はどのように変わったか(軍部の参与その他)、学者集団の構成の変移と意識の変化、研究内容の質的変化、大卒人材の需要の変動等が、専門領域を超えて研究されなければ、前進は不可能であろう。また、「科学体制」という言葉を関した文献が多く出版されたのも決戦段階下のことであった。その「体制」の中に大学はどのような位置を占めていたか。探究すべき課題は限りなく残されている。本稿はその序説に過ぎない。立教学院本部調査役、東京大学・桜美林大学名誉教授中部大学客員教授VisitingProfessor,ChubuUniversity―7―近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたか

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