中部大学教育研究12
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この状況のもとで、昭和期に入ると、学問の自由・大学の自治はどのような状況に置かれたであろうか。先ず学問の自由について述べると、周知のように、人文・社会科学研究の自由は、昭和期のはじめには徐々に許容の幅を狭められたが、決定的には1935(昭和10)年の天皇機関説事件を契機として、特に強い統制のもとに置かれた。その統制がやがて大学キャンパスの内部にも及び、教授達の言論活動や講義内容に関しても官憲の目が行き届くにいたった。一方、大学の自治に関しては、①教官人事権と総長・学部長等の選挙権の所在の再検討、②天皇大権とそれらの権限との関係、がそれぞれ問われた。ここでは具体的な事件史を紹介することは控える。ただし、戦時下の学問・教育に関する最近の研究を見る限り、次のような点は確かめておいてよいだろう。1)この時期の大学は、機関自体として国家行政の一部分ないし末端としての機能を果たすことを要請され、またその要請に応えた。例えば政府関係の審議会の委員推薦あるいは照会、会合通知等、研究や活動に関する多くの情報が大学の事務部を通じて収集あるいは伝達され、行政事務遂行の不可欠のステップとなった観がある。(駒込他編の前掲『戦時下学問の統制と動員』における諸学振興委員会の活動と大学との関係記述《寺﨑・奈須・駒込執筆》を参照)。学問の自由との関係という観点から言いかえれば、大学特に官立大学の事務部は、大正期以降の制度的整備をバネに、その侵害機能の一部を代行する機構へと変化した。2)戦時下の厳しい環境のもとにあっても、国家行政権と学問研究の自由との関係において日本の大学関係者が全く屈服していたわけではない。公然たる抵抗も、抵抗としての沈黙も、また偽装としての権力追随的な言説もあった。しかし特に研究及び研究者の組織化と学問の自由との関係については、当時の大学関係者たちはかなり厳格な識別意識を持っていたとみられる。先述したように、大正中期には大学の自治的な制度の建設がかなりの程度達成されていた。ちなみに、戦後の日本の大学内部では大学の自由を取り戻す際に「大正期に帰ろう」というスローガンがしばしば聞かれたという。そのことからも、大正期の大学改革は相当に高度の自治意識に支えられていたこと、そして他方、戦時下日本の大学関係者は大正期に建設された制度的特質やデモクラシーの時代精神をバネに、かなりの程度まで「守護壁」に恵まれていたこと、したがって彼等はアカデミックに覚醒した意識を持つにいたっていたことが推察される。司法当局に対してはもちろん、軍部や政府に対しても、屈服しきっていたわけではなかった。この時期のアカデミック・フリーダムの状況、特に大学人の意識レベルにおけるその存在・不存在を、「全称命題」として語るのは慎むべきであろう。大学の学術研究機関としての重要性さて対象時期に、大学の学術研究が振るわなかったわけではない。それどころか、機密的な軍事研究を含めて科学技術は極めて重視され、その研究を担当する大学の部局は拡張整備され、財政は大いに拡大した。こうした拡張や拡大が数字上どのようなものであったか、またどの分野がどのように拡大し、敗戦を迎えてその結果的にどのような「結末」を迎えたかといった研究課題は、なお大きく残されていると言ってよい。たとえば、理学系・工学系はもちろんのこと、医学系・薬学系・看護系といった分野では特に研究が重視され、中でも航空科学・通信科学・火器開発等の分野は極めて重視された。また、医学系・薬学系・看護系の専門教育が重視されたのは、もちろん軍医の需要や戦場医療の必要によるものであった。加えて、科学者・技術者を組織し動員する「科学動員」についても、政府は英・米・仏の先例にならって、積極的に導入した。これらはすべて学問的必要によるものではなく、国家総力戦としての第二次世界大戦のニーズによるものであった。現代戦争としての特質を持つ第二次世界大戦は、長距離をカバーして大きな殺戮力を持つ先端兵器の開発を必要としただけでなく、拡大する一方の戦線を支える通信・交信技術の高度化を求めた。さらに「総動員」とも称されたように、前線・銃後を問わず、国民の知的・身体的エネルギーの総消費を不可欠とした。勝敗の分岐点は、科学・技術の開発競争の勝敗と重なっていた。「日本における戦争と科学技術の関係」は当時においてまさに不可分のものであり、今後の研究を必要としている。この課題に迫るには通常の科学研究と戦争科学の研究とをどう区別するかといった難問があり、困難が予想される。しかし研究の現段階で言えるのは、戦争の結果生まれたのが学術研究分野間のアンバランスだった、という点である。特に統制を受け抑圧にさらされることの多かった社会科学・人文科学系と振興・拡大の対象となった自然科学系との間には、大きな差が生まれた。前者を見れば、特に治安維持法違反という理由のもとに多くの学者達が大学を追放されたし、いわゆる学生社会運動への弾圧はそれよりも早く進められた。併―6―寺﨑昌男

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