中部大学教育研究12
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ない理由の一つかもしれない。3分業の徹底教員の仕事に関して言えば、日本と大きく異なるところがあった。それは、学生集めに翻弄されずに、授業や研究に集中できるところだ。これは日本とは雲泥の差があると実感した。学生リクルートはすべてadmissionsofficeが行う。高校訪問、オープンキャンパス、入学許可まで学部レベルでは普通の教員は全く関わっていなかった。入学者が少ないのは教員や学科の責任ではない。これは学生は直接その学部や学科に入学してくるのではなく、大学に入学してくるため、学部や学科に責任がないという発想である。その学科を専門とする学生が少なくなるとすれば、それは入学後に学科が学生に対して学内での宣伝が不十分であったとか、プログラムに問題があるということになる。また、大学個別の入学試験はないため、入試を作る仕事も試験監督もない。教員は研究と授業に集中できる体制が整備されている。分業がきちんとしているのだ。よって、学科主任も例外なく、5時前には研究室を出て、自宅に帰るのである。どうどうと「私は自宅で仕事をしているからあまり大学に来ない」などという教員もいる。学期中に海外出張をする教員もいた。代わりの課題は出たが、補講というものはなかった。試験はオンラインで行った。誰もそれを非難しない。古き良き大学の姿があると感じた。また、教員が授業と研究に集中できるのは、academicadvisorシステムがしっかりしているからであることを知った。特に学部レベルでは、各学部にはadvisorという教務専門職員がいて、卒業までに学生は何を履修し、どのような資格を取れば、どのような就職があるかなど、すべて詳しくアドバイスをすることになっている。ちょうど教員と教務の間に入るような専門職である。教員に相談に行くのは、授業と研究に関して質問がある時だけである。日本のように教員が授業料の払い込みの催促で、学生の自宅に電話するなどということは想像もつかないらしい。4研究費教員の研究費に関して言えば日本の環境の方がいいのではないだろうか。日本のように「個人研究費」というものはオハイオ大学にはなかった。学科や研究科に予算があり、それを研究費として申請することはできる。また、本学でいう学内「特別研究費」のようなものはある。私もオハイオ大学の教員と一緒に申請書に名前を連ねたが、申請しない限り自由に使える研究費というものはない。必然的に大きな研究費が必要な場合は学外からそれを取ってくることが必要になる。だが、本や論文などは日本より簡単に手に入るかもしれない。必要な本は図書館にすでにあることが多い。なければ、すぐに購入してもらえる。届けば、図書館から連絡がくる。図書館スタッフはプロ意識が強い。皆、司書学でMAを持った専門職員だ。図書館長は書誌学で博士号まで持っている。○○センター、○○研究所はすべて、博士号を持つ専門家がセンター長である。日本の大学組織とは大きく異なる。また多くの雑誌は図書館でオンラインで読めるようになっている。図書館が契約し、雑誌にアクセスが可能となっているようだ。私が探した論文はかなりの割合で、オンラインで読むことができた。所属学会発行以外の論文を、日本からは個人でオンラインで読もうとすれば、1論文20~30ドルくらい払う必要があるが、そのような不便は全く感じなかった。だが、面倒なのは人を対象とする研究では、全て、研究許可委員会からの承認が必要なことだ。しかも、申請するには、ネットで講習を受けてからでないと申請ができない。これはどの大学でも同じようで、ネット上でアメリカの大学教員・学生共通の講習を受け、簡単な試験を受け、一定の成績を治めないと、研究許可委員会に研究の許可申請すらできない。私のような客員研究員も例外ではなかった。よって、日本では、学生の英語学習調査として、ある学生の日常をビデオで撮影するような研究は、本人の許可を得れば可能だが、アメリカの大学ではまず不可能に近い。なぜなら、そこに他の学生が撮影され、授業の一部が撮影され、大学が特定され、プライバシーにかかわることも多く、画像に映る全ての人々から許可を得ることが不可能であるからだ。許可はまず出ない。許可なく行った研究はアメリカ国内では発表できない。5日本語教育次に、オハイオ大学の日本語教育について報告したい。オハイオ大学では、田舎の大学にも関わらず多くの日本語学習者がいた。彼らは、日本語が専門ではない上、1,2年程度しか学んでいないにも関わらず、皆、結構上手に日本語を話していた。その理由は何だろうかと考えていたが、ある2点に集約されていることに気が付いた。それは、学習者に「日本語を理解したい、使いたい」という強い欲求があり、その「使用の機会が現実として日常生活の中にある」からである。彼らはアニメやゲームやコスプレのようなポップカルチャーで日本語に出会い、それをもっと知りたいという動機で日本語を学び始める。内発的な動機づけであるため、必然的に高いレベルで動機が維持される。だが、それだけでは、なかなかあれだけ上達しない。そこに、日本人学生や日本人TAが深くかかわってく―116―塩澤正

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