中部大学教育研究12
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が企てられたのも、昭和戦前期であった。転換の企てが昭和期に入ってどう進んだかについて詳述する余裕はない。ただ戦時下学問の統制を分析した最近の著作を特に参照していただきたいと思う(駒込武・川村肇・奈須恵子編『戦時下学問の統制と動員=日本諸学振興委員会の研究』、2011年、東京大学出版会刊。この研究には筆者も参加した)。転換の最初のきっかけは、天皇機関説問題であった。同学説が憲法統治理論の定説であったこと、しかも法学部で教授される国家官僚の共通教養であったことが、右翼勢力を刺激した。議会で問題化し、次いで国体明徴を決議し、文部省は教学刷新評議会を設置し、次いで日本諸学振興委員会を発足させた、という1935年から36年にかけての学術統制の起点に関しても、ここに詳説することを避けよう。ただ改めて強調しておかなければならないのは、文部大臣諮問機関・教学刷新評議会(1935~37)の答申が持っていた特徴である。それは、従来の諸諮問機関の慣例に反して、具体的実施事項の第一に、大学・高等教育に関する改革方針を掲げた。なかでも大学教授の選任については「学識識見人格」と並んで「全体的思想傾向ニ着眼スベキモノトス」と明言し、教授と学生は「直接ニ接触シ」て人格陶冶を図り、指導訓育のための便益を図るよう設備上も留意すべきこととしていた。その結果達成されるのが「敬神崇祖」の精神の涵養であり、「日本人トシテノ自覚的訓練」の実践だというのである。これは教育と学問を一体とした改編が政策の俎上にのぼったことを示す点で、近代日本の学問教育思想史上画期的と言える転換であった。教育機関としての高等学校・大学予科・専門学校以下の「学校」と「大学」とを串刺しに貫く「教学理念」が示されている。それはまさに当の教学刷新評議会が答申で謳った「肇国ノ精神」であり、「国体」の原理であった。それまで、これらを直接に大学・高等教育の目標原理とすることは、政府や枢密院等も避けていた。前の時期に、臨時教育会議が倫理・修身教育の大学への浸透を慎んだことは、前号で述べたとおりである。しかしこの区分は、少なくとも精神論のレベルでは、やすやすと取り除かれた。この後に起きる先述の高等学校令、専門学校令の変化と大学令の無変化とはこの精神・的転換の限界を示すものだったが、少なくとも上記のような言説レベルでの変化は、無視できない画期性を持っていた。大学教授に関しては、この5年後の1940(昭和15)年12月になって、文部省は、さらに徹底した関心を示す訓令を発した。「大学教授ハ国体ノ本義ニ則リ教学一体ノ精神ニ徹シ学生ヲ薫化教導シ指導的人材ヲ育成シ得ベキ旨ノ訓令」(1940年12月4日、文部省訓令第29号)がそれである。その解説に当たる文書では、大学教授が研究者であると共に教育者であるという責務を帯びていることは言うまでもないことである、と念を押したうえで「国家ニ須要ナル学術」の攻究と「国家思想ノ涵養」という大学令の文言とを繰り返し強調した。さらに、「教」と「学」とは本来一つに帰すべきものであって、大学教授は国体の本義に沿って学生の薫化誘導に当たるべきだと、教育勅語の筆者の一人である元田永孚の学問論を思わせる「教学一体論」を強調した。学問・教育関係論は、区分論・分離論・背反論を脱して、一体論へと転換された。他方、見逃せないのは、戦時下に「教育」というタームに代えて「錬成」という語が登場し、これが幼稚園から大学にいたる全レベルの教育を語る言葉となったことである。先にも触れたように、「錬成」という言葉並びに実践は、大学・高等教育にも適用された。いくつかの大学の予科では真剣に実践され、また大学本科の教育改善のシンボルとして、座談会のテーマになったこともある(寺﨑他編『総力戦体制と教育』1988年、東京大学出版会)。これなどもいわば「教学一体」を実践レベルで象徴する政策であり、また部分的ながら行われた実践であった。ここで注目すべきことは、「教育」というタームの「錬成」への読み替えという作業の前には、小・中学校と高等学校・大学予科・専門学校・大学等の高等教育機関との間に、いかなる境界もなかったという事実である。これは、先に述べた「学問と教育の関係の転回」という作業と連動していた。言葉を換えると、国民の人間形成の全プロセスを戦争に振り向けなくてはならない、という国家総力戦の要請は、初・中・高等という区別なく、公教育全体に負わせられた。学問の自由・大学の自治の状況対象時期の学問の自由、大学の自治の状況について見ておこう。京都帝国大学の沢柳政太郎事件を契機に、帝国大学総長と学部教授団との間における前もっての「協定」が認められ、さらに学部教授会があらゆる大学の学部に必置のものとされ、そもそもその学部が「分科大学」でなく教授集団(=特定領域専門家集団)と重なる集団として新設された。本稿の冒頭部分や前号で記したこのような変化は、日本の大学が総合大学(ウニフェルジテート)という学問総合体に近づいたことを示した。公立大学・私立大学もこの志向性を前提とした上で、大学としての制度的地位を獲得した。―5―近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたか

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