中部大学教育研究12
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の違いが期末試験での正解率の差となって現れたに違いない。前述のように、この試験では解答時に自作のノートに限り参考にしてよいとしているので、多くの学生が間違った答えを書いているということは、彼らは金環日食に関する解説を聞いたがノートを取らなかった(取れなかった)ということであろう。私は、一生に一度あるかどうかという天体ショーを観た直後の授業でもあり、その説明を聞き学生たちは十分納得したものと思っていた。また、彼らの様子も十分満足していたように思われたが、違っていた。学生たちはノートも取らず、その説明は記憶にも残っていなかったのである。彼らがノートを取らなかった理由はどこにあるのであろうか。一つには、学生たちには人の話を聞きながらメモを取る能力が十分ではないということが考えられる。もう一つは、この天体ショーをしても興味を持つことはなく、テレビドラマでも見ているように授業中の説明を聞き流してしまったという可能性がある。学生が授業を聞きノートを取るということと、授業の内容を理解することとはどのように関係するのか。井筒(2006)は京都女子大学での授業の理解度とノートの取り方について調査報告をしている。これによれば「講義で、どこが大事か分からない」と答えた学生(アンケート回収212人中の半分強)のうち「講義で、板書がキーワードのみの場合、それを写すのみ」、と答える学生が40%強、「板書がなく、口頭での説明のみの時は半分もノートが取れない」と答える学生が60%以上だと報告している。一方「講義で、どこが大事か分かる」と答えた学生のうちの60%以上が「板書がなく、口頭での説明のみの場合も半分以上ノートが取れている」と答えたと報告している。すなわち、講義が進む中で、その内容が良く理解できない学生の場合、板書があればこれを何とかノートに写すが、口頭での説明ではノートを取ることはできないというのである。この結果は、今回の経験を良く説明している。井筒(前述)による報告の内容を20%ほど低い方(例えば「口頭の説明では半分もノートが取れない」を80%以上に)にすれば、今回の事態は納得できる。学生たちは日食を観て感動はしたものの、そのメカニズムを説明されたからと言って、それを理解できるような状況ではなかったというのであろう。彼らは、事前の授業での日食や月食の解説もパワーポイントの説明をノートに書き写しただけであり、その内容が理解できていたわけではなかった。私が「日食に関しては、すでに説明したことなので、+αで分かってもらえる」と思ったことに間違いがあった。授業への対応このような事態に、我々はどのように対応したら良いのであろうか。いつも、口頭での説明だけで終わらないようにすれば、今回のようなケースに表面的な対処はできる。しかし、彼らがノートを取れなかった理由は、より本質的なものではなかろうか。人の話を聞きながらではノートが取れないということに関連して言えば、授業中に学生から「ディスプレイされた説明(板書)を写している間は口頭での説明をしないでほしい」と要求されることがある。彼らにとって、ノートを取る時には、板書を写すことと説明を聞くことは別の作業のようである。訓練をすれば、人の話を聞きながらメモを取ることができるようになるのかというと、そうでもなさそうだ。どのような場合においても、そこで語られている内容がまったく理解できないのであればメモを取るすべもない。結局、板書の丸写しをしたり、説明のすべてを書き写さざるを得ないことになる。しかし、それは量的にも速度的にも無理である。授業の進行に応じて、その内容がある程度理解できていなければ適正なメモを取ることは不可能である。このことは会議でメモを取るような場合も同じである。そこで、ノートの取り方を指南したからと言って、彼らが授業を理解できるようにはならないことは明白である。まとめなんとか学ぶ面白さを知ってもらいたいと思うが、学生が学ぶことに関して、ここで見てきたような状況だとすると、興味をかきたてる授業を用意できたからと言って十分とはいえない。学生たちが興味を持つと思われる授業を展開したとしても、彼らの思考力は働かず、テレビドラマでも見ていたかのように過ぎ去ってしまう。彼らが興味を持つことと、そこで思考力が働くこととは別のことである。今回の結果からわかるように、彼らには思考力が不足していることは確かである。思考力が働くには、ある程度の基礎学力も必要であり、彼らは予想以上に学力不足でもあるようだ。彼らには、思考力を働かせ、筋道を立てて物事を考える力を養うための教育が必要に思われる。宇佐美(2012)は著書の中(219ページ)で「学力の基礎は読み書きの能力である。現今の学生は、それがきわめて貧弱である。だから、私の『道徳教育』のような専門科目であっても、読み書きの学習指導を含みこむべきなのである」と言っている。高等学校では、教師が大切な場所を示し、教科書に線を引いて覚えるといった学習であり、思考力が育つような状況ではなかったものと思われる。宇佐美(前述)が言うように、読み書きが学力の基礎的な要素と言うの―112―山田功夫

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