中部大学教育研究12
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この文章は、「大学の自由」の妥当なとらえ方の一つであるが、将来における自律した学者の候補として存在する学生たちに向けてのメッセージとして理解できるものである。1939年といえば日本の学生達が修業年限短縮・学徒出陣の対象となるにはまだ早い時点であった。従ってこうした論述と非常時下の大学・学生像とを繋いで読むには無理がある。しかしこのような訳業の刊行がこの時期になされたのは、学生達に何らかの新しい期待がかけられていたからだと見ることができよう。山本は、訳の推薦者として、東京帝大哲学科教授の伊藤吉之助と京都帝大教育哲学教授の木村素衛とを挙げるが、真っ先に挙げているのは国民精神文化研究所研究主任・倫理学者紀平正美であった。第二の文献は、原編輯者・フリッツ・シュトリヒに邦訳監修・石川錬次を配した『アカデミーに於ける歴代碩学記念講演集独逸大学の精神』(1944年、高山書院刊)である。そもそも1944年という年に独逸大学の「精神」を謳う本が出たという事実からして憶測をかき立てられずにはいられない。狂熱的なナチス大学論・学問論、あるいはユダヤ系教授達を追放したアーリア民族至上主義のナチス的大学論・学問論が満載されているのではあるまいか、と。しかし読み進めるうちに、このような先入観は消える。この本は副題にいうように、ドイツのベルリン・アカデミーのさまざまな記念式典の際に碩学達が行った14編の講演の忠実な訳文集である。所収講演のうちシラーのそれは18世紀、他の11本が19世紀に行われたもので、時局色は全く見られない。しかも訳者たちは、当時におけるドイツ語学あるいは西洋史学の少壮学者たちであった。原講演者の名前を列挙すると、シラー、ミュラー、シェリング、ドロイゼン、ジーベル、ハルナック、トライチュケ、トレルチュといった哲学者、思想家、歴史家等である。訳者名を摘記すれば、竹山道雄、片山敏彦、堀米庸三、松田智雄、大村晴雄といった名が並ぶ。ほとんどすべて戦後には西洋史学、思想、文芸を担うようになる少壮学者たちであった。なお他に、現在戦時下の時局協力が取りざたされている高橋義孝も訳に加わっているが、1篇だけにとどまっている。添えられている「訳者紹介」欄を見ても、全10名の訳者のうち、監訳者の石川が東京都立高等学校(旧・府立高等学校)教授であったのをはじめ、他の9名中6名が高等学校(旧制)教授であり、他1名(堀米)が神戸商科大学予科教授であった。この文献の刊行趣旨については、石川が長い「解説」を記している。しかしその大部分は、原編纂者シュトリヒの編輯趣意を要説したもので、ドイツ大学の理念を確認したい、というだけのものであった。ただしその最後に、次のような時事的な文に始まる石川自身の感想が記されている。「さてこれらの講演を一読して第一に感ぜられることは、ドイツの偉大なアカデミカーに於て、君侯に対する絶対忠誠と熾烈な祖国愛と真理追求の情熱とが、実に見事な詣音を奏でて居ることであります。この点、我国に於て、アカデミカーと云へば、普遍的真理探究の故を以て兎角聖なる祖国に対する関心薄く、他方熱烈な忠君愛国の士は、動ともすれば大学を白眼視する傾向があったことは、まことに遺憾であります。」石川はまた、日本は「道義的世界観」を掲げて世界に発とうとしている。問われているのは大学および大学学徒の覚悟と責務である、として、次のように記している。「素より独逸の大学は独逸の大学、日本の大学は日本の大学であります。たとへ彼が六百年の伝統を誇り、我が大学の伝統は百年に満たずとするとも、祖国に寄せる我等学徒の殉国の至情、真理探究の熾烈な情熱、善なるもの、美なるものに対する勇気と愛に於て、絶対に彼等の後塵を拝する如きものであってはなりません。独逸は今年を以て建国一千百年を迎へます。然るに我々は万邦無比の国体を仰ぎ、二千六百余年の文化の伝統と遺産とを背負て居るのであります。奈良平安の文化燦然たる頃彼等は未だ幽暗な森林を馳駆して居た金髪の蛮族であったのであります。」従って日本の大学を万邦無比のものに仕上げるのはわれらの度量にかかっている、というのが石川の論旨である。独逸大学への敬意と競争心、切り札として出てくる「国体」観念の情緒性と非論理性が遺憾なく記されている。他方、ドイツ大学の紹介は、ここでは民族差別的・国粋主義的なものにはならず「アカデミカー」として合意できる水準にとどまらざるを得なかった。言いかえれば、国粋論、国体論の側から言えば軽蔑してしかるべき相手に、大学論というリンクの上では、敬意を表さざるをえなかった。石川という日本の「アカデミカ-」は、そのような葛藤をカバーするために、こうした解説を付せざるを得なかったであろうと思われるのである。教育と学問-関係を組み換える試み先にもふれたように、学問と教育との関係、特に社会・人文科学領域の学問と教育との関係を、先ず区分し、次第に分離させ、やがて背反したものとする、という順で仕分けしてきた文教政策に対する大きな転換―4―寺﨑昌男

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