中部大学教育研究12
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しかし同時に、その考察の成果自体も、統制にさらされた。ドイツ大学論はどう紹介されたか戦時下の日本の学校教育論に大きな影響を与えたのは、ナチス支配下におけるドイツの教育の実践(典型的なものとしては青少年教育組織ヒットラー・ユーゲントの活動)と、一部の教育学者の教育論とであった。しかし大学論に関して見ると、その影響は大きかったとは言えない。ただし文部省は明確な関心を示した。教育調査部は1939年に、1933年以降ドイツにおける大学規程にどのような変化が起きたかを伝える資料集を作成している(文部省教育調査部『一九三三年以後に於ける独逸大学に関する規定』1939)。1933年から1936年までのドイツにおける文部大臣命令をはじめとする大学関係諸規定を集めた資料集で、それらを解説した行政官等の文章も訳載した。内容は広範であり、教員・学生の組織化、ナチス指揮下の大学教授の選考基準、学者の姿勢にも及ぶ論説が含まれていた。刊行の1939年は、日本では東京帝国大学経済学部を対象にいわゆる「平賀粛学」が行われた年であり、また専門学者・学術を対象とする学術組織「日本諸学振興委員会」の活動が本格化していた時期であった。すなわち大学の自治的運営への統制が深部におよび、他方、政府による専門諸学への統制・動員が本格化していた時期である。もちろんこの時期に外国大学の事情を紹介したのは文部省だけではなかった。また被紹介国もドイツだけではなかった。例えばアメリカのそれも紹介された。その例として、1938(昭和13)年には岡本成蹊によって、シカゴ大学学長であったR.ハッチンズの大学論が翻訳されている(ロバート・ハチ(ママ)ンズ著、岡本訳『大学革新論』)。原著はハッチンズの著になるアメリカ高等教育論であるが、しかしこの翻訳文献には慶應義塾大学教授・今泉孝太郎による付録論文が「独逸の大学統制」というタイトルのもとに付けられていた。今泉は、専らドイツの大学教授達がどのような「革新」を生み出しているか、特に学生団、助手団、教授団の組織化や学術・教育革新がどのように進行しつつあるか、そしてその結果が、国家に対する自治的運営というドイツ大学の伝統的運営原則にどのような改編を迫っているかを論じている。この付録論文がなぜ付けられたのか、訳者岡本と今泉との間にはどのような関係があったのかなどは、未詳である。しかし印象としてはまことに唐突な仕方で、「付録」とされている。推測すれば、1938年という時期になると、アメリカの大学論の忠実な訳を刊行することは、内閣情報部の検閲や軍部の規制、さらに極右勢力による非難攻撃に触れる恐れが大いにあったのではあるまいか。また1938年は、東京帝国大学をはじめとする帝国大学の総長選挙・教官選考の手続に関して、荒木貞夫文部大臣が強行しようとした改編策動が起き、世論も学界も大学に大いに注目していた時期であった。このような時期に、大学の国家支配を断行していたドイツの動向を抜きにしてアメリカの大学教育論を訳出することは、大いに危険であったろう。本訳文と付録との奇妙な結合の理由は、このような点にあったと推測される。次に二冊のドイツ大学論文献を見よう。一つは、1939(昭和14)年刊行の山本饒訳『学徒の使命』(弘文堂刊)である。これはフィヒテによる講演の忠実な訳書であって、ナチス大学論とは全く縁のない内容であった。すなわち1794年、1805年、1811年の3回にわたってフィヒテが行った公開講演がそれぞれ「学者の使命に関する数回の講演」「学者の本質と自由の領域に於けるその諸現象とについて」「学者の使命に就いての五回の講演」と題されて、収められている。なぜこの時局下に18,9世紀のフィヒテの大学論・学者論を訳出しなければならなかったか。これについて訳者は何も触れていない。ただし、訳者は国民精神文化研究所と関係を持った人物であったと見られ、この訳業の理由を論考「学者の本分」として同研究所の紀要に発表した、と序文に記している。それを参照すれば、あるいは本来の意図が分かるかも知れない。しかし今はその余裕がない。そこで訳文全体を通覧してみると、この書は、「学者」(Scholar)の本質を特に独逸的基盤の上に考察した、いわばフィヒテの学問構造論の総体を紹介しようとした文献であると見ることができる。特に、日本の学生達に「学徒」という位置づけのもと、どのような見識と覚悟が必要かを理解させることが訳出の主要な目的だったのではないかと思われる。「大学の自由」に関して論じた第2部中の第6講論文において、フィヒテは次のような一文を残している。「他人が大学の自由に就いて何と考へやうとも、彼自身はそれを正しい意味に解する。即ち大学の自由をば、外的な規則が彼から取り去られる場合には自分で自分を戒めることを習ひ、他人が彼を監視しない場合には自分で自分を監視することを習ひ、外的な鼓舞が最早全く存しない場合には自分で自分を鼓舞することを習ひ、かくして彼の将来の高き職分の為に力を養ひ、己れを堅固にするための手段として、解するのである。」(山本訳)―3―近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたか

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