中部大学教育研究12
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にも注目しておかなければならない。すなわち5年後の1945年には、総計219校だったのが同311校にまで増加した。それだけではなく、医学専門学校の大増設によって医学部門が7倍になり、工学・理学関係が3倍、水産関係ならびに女子専門学校が2.5倍というように、多くは戦争のもたらす需要が、構成の激変を生んだ。工学系増加の背景には、文科系私立大学をできれば理科系に転換させるだけでなく工業専門学校に変えさせるという国策が働いていた(1943年10月閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」)。④高等師範学校は、この年男子2校、女子2校の合計4校に過ぎなかった(敗戦までに3校増設された)。他方、師範学校が3年後の1943年から専門学校に準ずる教育機関になって高等教育レベルに数えられるようになったから、高等教育における教員養成学校の比重は急増した。本質観はどう変わったか昭和初期から戦中期にかけての大学の本質観にはどのような推移が見られたであろうか。概観すると、次のように纏めることができる。第一に、大正後半から昭和にかけての改善状況を冒頭1)~6)のように纏めたが、その後の戦争への突入という大変動にもかかわらず、大学の本質観は、今回の対象時期にかけて変化なく維持された。ただし高等学校令や専門学校令の目的規定には、下記のように「錬成」というタームが導入された。その改訂作業は、戦局が苛烈化した1943年という時点だったにもかかわらず進められた。<高等学校・専門学校の目的規定の変化>高等学校〔1918=大正7年〕高等学校ハ男子ノ高等普通教育ヲ完成スルヲ以テ目的トシ特ニ国民道徳ノ充実ニ力ムヘキモノトス(第一条)〔1943=昭和18年〕高等学校ハ皇国ノ道ニ則リテ男子ニ精深ナル程度ニ於テ高等普通教育ヲ施シ国家有用ノ人物ヲ錬成シ大学教育ノ基礎タラシムルヲ以テ目的トス}(第一条)専門学校〔1928=昭和3年〕高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス専門学校ニ於テハ人格ノ陶冶及国体観念ノ養成ニ留意スヘキモノトス(第一条)〔1943=昭和18年〕専門学校ハ皇国ノ道ニ則リテ高等ノ学術技芸ニ関スル教育ヲ施シ国家有用ノ人物ヲ錬成スルヲ以テ目的トス」(第一条)「皇国ノ道ニ則リ」という文言が両者共通に加わり、「錬成」というタームも正面切って入ってきている。しかし大学の場合は、大学令・帝国大学令ともに、目的規定に関して何等変更は行われなかった。すなわち大正の改革期に大学への「修身科」や「倫理教育」の導入を避けたことに象徴される学問研究・大学の理念が、ほぼそのまま継承された。大学像や使命論に関してドイツの重要性は相変わらず主張され、重視の傾向は第二次大戦が決戦期を迎えるにつれてむしろますます強くなった。しかし他方、「研究と教育の双方を本質的な責務とする機関が大学である」という考え方のフレームは、揺らがなかった。第二に、大学における「教育」の重要性は、前の時期に比べて遜色なく、認められた。ただしその「教育」と「研究」との関わりはどうあればいいかというテーマになると、前の時期までとは全く異なる主張が登場した。すなわち「国体観念」あるいは「国体精神」という理念をもって学問と教育を繋ぐべきだという主張が顕在化し、前の時期までの学問・教育の「分離」ないし「背反」論の克服をめざすものとなった。第三に、教育が重視されたとはいえ、大学の学術研究機関としての重要性が無視されたわけでは全くなかった。逆に、自然科学系の学問研究の重要性はかつてなく高く評価され、保護奨励された。学術政策を見る限り、第二次世界大戦下は、かつてなく科学技術の研究とその教授とが重視された時代であった。その基本的理由は、第二次世界大戦が本格的な現代戦争即ち国家総力戦であったことによる。後に述べるが、大学は安定的な研究基盤の一つとして重視され、施設的にも財政的にも拡大された。これに対して社会科学・人文科学の分野に対しては、特に1920年代末以降、厳しい統制が加えられた。この統制は、「大学とは何か」を考えるいわゆる「大学論」をも対象とするものであった。ちなみに社会科学的大学論が初めて登場したのは昭和期以降で、マルクス主義的あるいは自由主義的な社会歴史認識を土台にしていた。それらも当然、思想・言論統制の対象となった。(昭和初期の森戸辰男、河合栄治郎による大学論争。寺﨑「大学の自治の理念」『大学の自己変革とオートノミー』1998年所収を参照)。これに加えて経済恐慌のもとでの学士就職状況の深刻化も加わって、大学関係者自身の大学への考察が社会科学的に進められ、それらが公にされ始めたのがこの時期である。―2―寺﨑昌男

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