中部大学教育研究11
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はじめに前号まで第10号(本シリーズ)では1890年代初めから1910年代までを対象として、大学論を整理した。元号でいえば明治後期から大正初期にわたる期間である。この間、①初等義務教育の普及と中等教育の確立、②高等教育の多様化と帝国大学の威信向上、③帝国大学を基盤にした明治アカデミズムの形成、④私学拡大と有力化、⑤その上での大学昇格要求等を基盤にして、大学の本質に関する議論がさまざまな立場から台頭してきた。前号で注目したのは、大学教育本質論、学習論、大学自治論などの論点であった。前記①~⑤のさらに背後には、中央における官僚制の確立と日露戦争前後の産業化の進展とがあった。本号ではこれに続く時期を取り上げる。それは大学の拡大と自治の保障の時代だったと同時に、前の時代以来残された、大学のあるべき形態、大学における学習の意義とプロセス、学位授与権の所在といった、大学の本質を支える制度的諸条件が本格的に論議された時代である。言いかえると、前号までに見たように、明治期の終わりから大正期の前半までに〈「大学」とは「学術研究」とその「教授」を行うところだ〉という共通観念は出来上がっていた。すなわち近代大学が要求される大学の二つのミッションは、日本の大学教授たちに既に受け入れられていた。この共通観念に加えて、近代大学が持つべきさまざまな要件や属性が語られ、また従来の制度の改善点を加えて、定形が形づくられたのが、この時期である。特に臨時教育会議という内閣総理大臣諮問会議が出した答申は、そのほとんどが勅令に始まる諸法令に具現され、また文部行政にも反映されて行った。新制度の具体相本論に入る前に、この時期に出た3勅令によって、どういう制度が表れたかを示しておこう。下記のうち、以下の部分を、本論では「冒頭列挙」と記すことにする。A大学令(1917=大正7年12月6日、勅令第388号)B帝国大学令(1919=大正8年2月7日、勅令第12号)C学位令(1920=大正9年9月6日、勅令第200号)大学は「国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ攻究シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スル」ことを目的とする。ただし併せて「兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意」するものとする(国家原理の継承と教育目的)。大学は数個の学部を置くことが「常例」だが、特別の必要ある場合は1学部の場合でも大学とすることができる。その学部は法学、医学、工学、文学、理学、農学、経済学及商学だが、必要ある場合はこれらを「分合」して新学部を作ることができる。(学部本体論と複合学部の容認)学部には必ず研究科を置かなければならない。複数の研究科を置く場合「研究科間ノ連絡協調ヲ期スル」ことをめざして大学院を置いてもよい。(研究科必置原則)「大学」という機関としては、帝国大学又は官立大学のほか、公立大学・私立大学を置いてもよい。公立大学は、北海道および府県に限って設置してよい。私立大学は財団法人である必要がある。その財団法人は大学にふさわしい設備・資金・維持金を保障する基本財産を現金または国債証券その他文部大臣の定める有価証券とし、寄託しなければならない。(公私立大学の容認)公立私立大学およびその学部の設立廃止は文部大臣の認可による。その際文部大臣は天皇の裁可(勅裁)を経なければならない。公立私立大学は文部大臣が監督する。(大学の認可・監督方式)大学入学資格は予科修了者あるいは高等学校高等科卒業者とする。(大学予科新設)学部年限は3年、ただし医科だけは4年とする。(修業年限)予科年限は中学校4年修了者については3年、5年修了者は2年。(中等教育への接続と年限短縮)公立私立の大学には「相当員数ノ」専任教員を置かねばならない。(専任教員必置原則)―1―中部大学教育研究№11(2011)1-9近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたかWhatistheideaoftheuniversity?-historicalchangeoftheanswersinModernJapan寺﨑昌男

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