中部大学教育研究11
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むるの外何等の利なく又た之が設備を完成する上より見るも所要経費の過多なる点より云ふも事実不可能に属す」。ここに言う「高等教育の流弊」とは、分科大学が貧弱な設備のもとに研究と教育の二重の重責を負わされて行き詰まる一方、学生たちは学術研究を望むのではなく「専門的実務的教育」だけを望んでいる、という実態を指していた。第2は、学術研究所の設置要望の背景に、世界的な社会変動と科学技術の進歩が意識されていることである。これらが具体的にどのようなものであったかは必ずしも明らかではないが、①学術研究と学術知識を有する指導者の存在が国家の浮沈に関わると指摘していること、②意見書の直前(1916年)に東京帝大に附置されたばかり伝染病研究所と、1917年設立の理化学研究所の創設とを特に挙げていること、③署名人に当時東京帝国大工科大学教授で、後に理化学研究所の黄金時代を築いた大河内正敏が名を連ねていることが特に注目される。学術的教養を持つ新リーダーの必要と科学技術研究のビッグビジネス化・国際化に即応した大学・大学院づくりの必要性が鮮明に意識されていたことを示している。この姿勢の前には、私立大学を認めるかどうかというようなドメスティックな論題は軽々と越えられたようである。全国に設けられるべき大学は公立・私立双方を含むものとすべきだと論じていた。なお、意見書の執筆者たちは、日本の大学院の設備状況や教育成果については全く評価していなかった。もちろん、臨時教育会議での審議に対してこの意見書の及ぼした影響は、決して大きくなかった。それは、先に紹介した審議内容からも想像できる。しかしこの意見書が内蔵する大学変革への背景が具体的に何を意味したかは、特に1910年代の世界的な科学技術史との関わりで、さらに深く掘り下げるべき今後の課題である。反面、この背景の中に既成のエスタブリッシュメントが構成して審議した臨時教育会議を置いてみると、そこで交わされた大学論議は、学術史・科学史の段階からみてかなり時代遅れのものだった、ということになるであろう。(この項終り。次号に続く)立教学院本部調査役・総長室調査役中部大学客員教授VisitingProfessor,ChubuUniversity―9―近代日本において大学の本質はどのように考えられてきたか

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