GLOCAL_Vol19
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2021 Vol.192021 Vol.199を食べる習慣があったという内容が見られたため、ここから特定の日のみ精進料理が食べていたのではないかと考えた。次に、別の状況を記したもので、『兎園小説』「なら茸 乞児の賢 羅生門の札」という随筆の中で、なら茸の吸物膳とお酒を食す百姓の様子が描かれている。ここから酒宴などに精進料理が食べられていたことがわかり、さらに、この記述から、修行のためではなく、酒宴など一般の人たちの特別食として精進料理があったのではないかと考えた。 このように、精進料理に関する随筆の記述を見ていくと、現代の定義から外れた例外的な食品の制限や、現代では気にされていない、食べるタイミングの指定などがあったことがわかる。 最後に、明治時代の記述をみていく。明治時代には、肉食文化のある西洋の文化が到来し、そこと差別化をはかるため、精進料理専門店や精進料理専門の仕出し屋が増加したと考えられる。特に、仕出し屋の普及で、精進料理をお寺で作る文化が衰退していったことがあり、それぞれの宗派やお寺独自の決まりや作法へのこだわりが、無くなる傾向にあったことは、定義のゆらぎに大きな影響を与えていたといえる。さらに、精進料理の専門料理店について、『浪華百事談』「山芬亭福重、精進料理、漬物」に、「又酒も売り酒の肴には湯葉氷豆腐を鰹節をいれて煮しめしものにて」という記述があり、この「鰹節をいれて煮しめしもの」という点について、古い資料ではあるが、『料理物語』を見ると、矛盾点を見つけることができた。『料理物語』には、精進料理で使う「精進だし」のレシピが書かれているが、そこには野菜のみが記され、鰹などの魚介は出汁にも使わないことがわかる内容となっている。よって、『浪華百事談』の記述にある精進料理は少なくとも、『料理物語』が刊行された1643年以降の精進料理の定義に当てはまらないものと考えられる。現代~精進料理の定義の簡略化~ はじめに説明した辞書の通り、現代の精進料理は野菜のみを使ったもので、魚介や肉類は使用しないものとされる。このことから、江戸時代と比較すると、細かな独自ルールが見られないため、現代の定義は簡略化されていると考える。また、仏教の修行時の食であるという認識の低下が見られるため、現代の精進料理には宗教的な概念が見られない傾向にあると考えられる。時代ごとの定義の比較と結論 これまでの記述をまとめると、上代以前、ウチソト文化の制限から仏教の制限へ移り変わったことで、修行向きの粗食として精進料理の土台となる食文化が生まれた。鎌倉時代になると、禅の教えや典座の誕生により、精進料理が誕生し、さらに手の込んだ食に変化する。その後、室町時代に、仏教布教のため戒律の解釈が緩和されたことで、江戸時代には寺院や家ごとに独自のルールが誕生し、定義が曖昧になってしまった。しかし、明治時代に入ると、西洋文化が到来し、外食文化と仕出し屋の普及により、定義の統一化がなされた。そして現代では、修行食という認識が薄れ、戒律の制限が簡素になっただけでなく、精進料理は高級な特別食として外食文化の1つとなっている。 これらを踏まえて、結論としては、現代の定義は明治時代以降の精進料理専門料理店の定義が用いられており、それ以前には現代の定義とははずれるものがあったということだ。今後、この研究に関してさらに調査を進め、新しい精進料理の定義を示したいと考える。参考文献『日本料理文化史 第7巻』熊倉功夫 2017年『精進料理と日本人』鳥居本幸代 2006年『典座教訓』道元禅師 1244年『醒睡笑』安楽庵策伝 1623年『幽遠随筆』入江昌喜 1774年『花街漫録正誤』喜多村信節(1784-1856) 江戸後期写『翁草 塵泥抜萃』神沢杜口 1772年『翁草 細川家士堀内伝右衛門覚書』神沢杜口 1772年『兎園小説』滝沢馬琴 1811年『浪華百事談』著者未詳 1892-1895年に書かれたと推察『料理物語』著者未詳 1643年『日本国語大辞典』日本国語大辞典 編集委員会 1972年『広辞苑』三省堂編修所 1993年

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