GLOCAL Vol.18
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2021 Vol.182021 Vol.1813丹羽郡ならび犬山の状況を踏まえた上で、のちに築城される小牧山城との位置づけを考察する。参考文献愛知県史編さん委員会編『愛知県史 通史編2 中世1』愛知県、平成30年。愛知県史編さん委員会編『愛知県史 通史編3 中世2・織豊』愛知県、平成30年。愛知県史編さん委員会編『愛知県史 資料編10 中世3』愛知県、平成21年。犬山市教育委員会、犬山市史編さん委員会編『犬山市史 通史編 上 原始・古代、中世、近世』犬山市、平成9年。犬山市教育委員会、犬山市史編さん委員会編『犬山市史 史料編3 考古 古代・中世』犬山市、昭和58年。清洲町史編さん委員会編『清洲町史』愛知県西春日井郡清洲町、昭和44年。岩澤愿彦編『系図纂要 新版 第7冊下 紀氏⑵・平氏⑴』名著出版、平成7年。『尾張志 下巻』愛知県郷土資料刊行会、昭和54年。千田嘉博『信長の城』岩波書店、2013年。『第3回東海学シンポジウム2015 いくさの歴史Ⅰ~戦争の本質を見つめ直す~』NPO法人東海学センター―小野友記子「「土の城」から「石の城」へ―小牧山城の発掘調査成果から―」史跡小牧山主郭地区発掘調査現地説明会資料/小牧市 (city.komaki.aichi.jp)拠点に海西・愛知郡を、敏広が岩倉を拠点に葉栗・丹羽・中島・春日井郡をそれぞれ支配することで結着している。室町後期の犬山 犬山は、「良峯氏系図」から正暦年中(990-995)に寄進されて成立した由緒をもつ小弓荘と呼ばれる荘園の中にあった。至徳2年(1385)12月5日付「足利義満御教書」によって足利義満が楞伽寺に小弓荘を安堵しており、応永21年(1414)4月11日付「足利義持御教書」で足利義持が三聖寺末寺の楞伽寺に小弓荘内犬山領家職等を安堵した。文正元年(1466)8月9日付「足利義政御教書」でも同様の内容がみられ、文明12年(1480)11月30日付「足利義政御教書」では「小弓荘」とは記されていないものの楞伽寺に犬山領家職が安堵されている。しかし、文明12年以降の御教書はみられなかった。船田合戦からみる織田氏 次に織田氏の中での大きな争いがみられるのは、船田合戦である。船田合戦は、明応4年(1495)に美濃国で斎藤利国と石丸利光との争いであり、清須の敏定が石丸方に、岩倉の織田寛広が斎藤方についた。結果、石丸方と清須方は敗北したものの、斎藤利国が近江国に出陣した際に土一揆に討たれたことで岩倉方の勢力も弱体化した。船田合戦直後の明応8年(1499)11月19日付「織田寛広判物(折紙)」では岩倉方の寛広が妙興寺に対し判物を出しているが、それ以降は清須方が妙興寺宛てに出した史料はみられるが岩倉方からのものはみられない。よって、岩倉方は船田合戦以降に弱体化し、清須方の勢力が増したことで支配領域も減少したとする。織田信貞と犬山 織田信貞は織田信長の祖父であり、勝幡を拠点に津島への影響力を強めた人物である。『系図纂要』には、信貞の説明として「居二犬山城一築二勝幡城一居レ之」と記され、犬山城に居住した後に、勝幡城を築き居住した様子がみられる。 『尾張志』には犬山築城に関して「永享の末より斯波氏主領して、家臣織田氏領レ之、斯波元勲始而築城云々」「延徳の頃城を木の下村に築く」といった記述がみられる。更に、歴代犬山城主の一覧には信貞の名がみられる。永正13年(1516)12月1日付「織田広延等連署奉書」には、信貞の名がみられ、安堵された寺の中には丹羽郡の隠泉寺の名がみられる。隠泉寺について大永6年(1526)8月27日付「織田達勝書状(折紙)」では、達勝が妙興寺に対し、末寺の温泉寺・称名寺に桟敷銭を納めさせるように伝えたものだが、その中に「温泉寺・称名寺下、領中之末寺候間、如レ此之諸役可レ被二相触一候、」とあり、温泉寺・称名寺が領中の末寺であるとしている。おわりに 室町後期の犬山は、文明12年まで幕府からの御教書の発給が確認でき、荘園領主の存在やその領主が幕府に支援を求めた様子が窺えるが、文明12年以降の幕府からの御教書の発給が確認できないことから、この頃には、在地領主の権力すなわち斯波氏や織田氏の勢力が強まったのではないかと推定する。また、文明8年には織田氏の中で大きな争いがみられ、最終的に清須方と岩倉方と二分化されている。以上のことから、御教書が最後に出された時期と織田氏の中での争いの時期が近接していることや『尾張志』の由緒から文明以降に犬山を含む丹羽郡は岩倉方が獲得し、それに伴い岩倉方による統治が始まったのではないかと推定する。信貞に関しては、勝幡のみではなく犬山に居住した様子が『系図纂要』『尾張志』に記載されているため、船田合戦後に清須方が勢力を伸ばした際に犬山にも清須方の勢力が及んだ可能性がある。最後に、弾正忠家に関しては、信秀・信長の検討がまだ不足しているので今後補っていく予定である。これらの点を踏まえて織田弾正忠家と

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