GLOCAL Vol.18
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12織田弾正忠家からみる丹羽郡と小牧山城国際人間学研究科歴史学・地理学専攻博士 後期課程1年林 沙也加(HAYASHI Sayaka)岐阜県中津川市出身。2020年に国際人間学研究科歴史学・地理学専攻博士前期過程を修了し、引き続き後期課程に進学。専門は日本中世史。修士論文では、織田信秀・信長の居城から小牧山城の廃城理由について探ったが、現在はより詳しくみていくために信長の祖父・信貞の頃にまで遡り、織田弾正忠家が丹羽郡や犬山城の関わりを確認し、小牧山城の廃城理由を探る研究をしている。sし、自らと親しい朝倉氏などの武士を代官に任命されるよう荘園領主と交渉した。そのため、斯波氏の家臣の中には甲斐氏に従う者も存在し、斯波氏は十分に家中を統率することができなかった。康正3年(1457)11月に義敏の家臣らが洛中で濫妨を働いたが、幕府は甲斐常治・朝倉孝景・織田敏広にそれを鎮圧させた。長禄3年(1459)1月には、義敏と常治の戦いが尾張にまで及び、足利義政は常治方を擁護したため、義敏方は不利な状況であった。同年5月には、足利義政は義敏に関東出陣を命じるも、義敏は将軍の命には従わずに常治方の越前国敦賀城を攻めた。義敏方は敗北し、改めて関東出陣の形をとるために尾張に移ろうとするも、そのような行動に激怒した義政は、義敏の嫡子である松王丸(のちの義寛/義良)が家督を譲らせた。寛正2年(1461)9月頃には、松王丸は僧にされ、義政は斯波氏の傍系渋川義鏡の子義廉を斯波氏の家督とした。排斥された松王丸は義敏と連携したことで、斯波氏では義敏・松王丸派と義廉派の2派に分かれて対立することとなった。 織田氏は、応永9年(1402)頃より尾張へ入部しており、織田常松が守護代、常竹が守護又代を務めた。織田氏の中で最初に確かめられる大きな争いは、文明8年(1476)11月13日に下津で敏広と敏定が対峙したものである。争いの要因は、斯波氏の家督をめぐる対立であり、最終的には敏定が清須をはじめに 小牧山城は、織田信長が永禄6年(1560)に築き、美濃攻略を終えた同10年(1564)に廃城となる美濃攻略のため一時的に築かれた城である。しかし、近年の発掘調査により城郭・城下町共に当時の中で先進的なものであったことが判明した。先進的な城であったのであれば、なぜわずか4年で廃城とする必要があったのか。この内実を明らかにするには、小牧山城が築かれた時には敵対関係にあり、小牧山城が廃れた時には城主が入れられている犬山に着目する必要があると考える。そこで祖父信貞まで遡り、弾正忠家三代と小牧・犬山の関わりを確認した上で小牧山廃城の理由を検討することにする。この課題に取り組むために、尾張国での織田氏の動向や丹羽郡ならび犬山の状況について現時点で確認したことをまとめることにする。小牧山城の発掘調査 小牧山城といえば、近年の発掘調査により中腹以上の曲輪に石垣を巡らしていたことや高さ4m程度の高石垣、櫓台から本丸南面にかけた上段石垣には巨石が用いられた。他にも、主郭に至る大手の登場路には岩盤と石垣を組み合わせた壁面が、主郭中心の礎石建物には玉石敷と排水用の側溝、天目茶碗や青磁の小碗などが出土している。城下町では、地籍図から直線的な街路による長方形街区がみられ、間口が狭く奥行きの長い短冊形地割の屋敷地が並んでいたことや、「紺屋町」「鍛冶屋町」といった小字がみられた。上御園遺跡では、明治の地籍図とほぼ同じ方位で水路や掘立柱建物や柱穴列が確認され、新町遺跡では井戸や多数の瀬戸美濃産陶器や土師器が出土したことで、城下町の様子が明らかとなった。それにより、千田嘉博氏は小牧山城を単なる攻撃拠点としてのみではなく、当時の最先端の城であったと評価した(千田、2013)。また、小野友記子氏も千田氏の意見に賛同している(小野、2018)。斯波氏の動向 応永7年(1400)頃に斯波義重が幕府より尾張国守護に任命されたことに伴い、その被官である織田氏も尾張に入部した。享徳元年(1452)9月1日に斯波義健が没すると、斯波氏の家督は斯波持種の子義敏が継いだ。斯波義敏について『系図纂要』『武衛系図』では、義健の子として義敏の名がみられるが、「實修理大夫持種男」と記されている。そのため、斯波義敏は、家督を継いだ際に義健の養子となったとする。家督を継いだ義敏は被官甲斐常治の専横を抑えようとし、双方は激しく対立した。他にも常治は、裁判の判決を現地で執行する権限である使節遵行をもとに、荘園を実質支配する権力を構築しようと

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