GLOCAL Vol.18
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2021 Vol.182021 Vol.189Frankfurter)は、オックスフォード大学のイーストマン客員教授として、1933年から1934年にかけての冬にイギリスに滞在し、ジョン・M・ケインズ(John M. Keynes)に恐慌の分析とニューディール政策への提言を要請した。もともとケインズは、1933年6月から7月にかけて開かれたロンドン世界経済会議の頃からニューディールに注目しており、同年12月には、ローズヴェルト宛の公開書簡を『ニューヨーク・タイムズ』に発表し、新たな改革の“実験”に期待感を滲ませていた。 そのためケインズは、フランクファーターとの接触を経て、1934年5~6月にコロンビア大学の招聘でアメリカを訪問し、新政権の発足から約1年たつローズヴェルトとの会談にも成功した。しかし、ケインズが「ローズヴェルトは経済学を知らない」と述べたというエピソードも残っているように、この会談でローズヴェルトとケインズが“意気投合”したわけではないが、ケインズは、1934年6月にローズヴェルト宛に公開書簡を送り、1カ月あたり4億ドルの赤字支出がその3~4倍の国民所得を増やすと政策提言を行った。 ケインズは、物価を上げるのに通貨供給量を増やすのではなく、消費購買力の増強を図って行うことを主張し、様々な“実験”を試みているニューディール政策を注目し見守っていた。ただしケインズは、全国産業復興法(National Industrial Recovery Act)の価格固定策や官僚的規制には反対であり、大幅な公債発行による赤字支出にまで財政規模のレベルを引き上げ、救済政策や公共事業を実行することがアメリカの景気回復に不可欠であると考えた。  確かにローズヴェルトは、就任2年目にしてやっと赤字予算を組むことに踏み切ったのであり、そこにケインズの影響を見て取ることはできる。しかしローズヴェルトは、ケインズを必ずしも尊敬していたわけではなかったし、少なくとも当時はケインズの理論を充分に理解しているわけではなかった。しかも、専門家のエコノミストでさえ、ケインズ理論を最初からアメリカに有効なものと受けとめていたわけではなく、「シカゴ学派」の経済学者は、 「不況期には赤字財政支出」いう提言を「古い帽子」にすぎないとして、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の欠点をあげつらった。ローズヴェルト政権の対応 1937年恐慌の深刻化は、“ローズヴェルト不況”と呼ばれ、ニューディール政策に対する批判をいっそう高揚させた。独占資本や実業界の側は、労動組合の保護、累進課税の設定、証券取引・持株会社の監督など、政府による一連の規制や統制が企業の自主的活動を阻害しており、このような政府の反ビジネス姿勢が深刻な不況を再燃させてしまったと考えた。しかも、1937財政年度の公債累計額が364億ドルにも上っており、行政権の拡大とビジネス規制が深刻な財政赤字を恒常化させているため、民間企業の投資意欲を萎縮させて景気回復の足腰を弱めていると、彼らは主張した。一方、労働組合やリベラル派の側は、独占資本や“ビッグ・ビジネス”の反ニューディール的姿勢に不況を再燃させた根本的な原因があると考え、独占資本や“ビッグ・ビジネス”が政府に非協力的な姿勢をとって雇用や生産を意図的に遅らせているため、国民の消費意欲や購買力を抑制していると批判した。 このような対立するニューディール批判は、不況の再燃を前にして、ローズヴェルト政権内部に政策上の激しい論争を生み出した。 第一は、独占資本や実業界の立場を汲むものであり、財務長官のヘンリー・モーゲンソー2世(Henry Morgenthau, Jr.)、商務長官のダニエル・ローパー(Daniel Roper)、復興金融公社(Reconstruction Finance Corporation)長官のジェシー・H・ジョーンズ(Jessie H. Jones)などの政策担当者が主張した。彼らは、赤字予算、ビジネス規制、増税などが企業の信認をなくして投資意欲を奪ったために不況が再燃したと主張し、それを克服するためにも、均衡予算、減税政策、規制解除などによって企業の自主活動を喚起することが大切であると強調した。特にモーゲンソー財務長官は、すでに37年恐慌が起こる前から、農村電化、土壌保全、土木事業などの計画を1936年7月までにすべて廃棄することを提言していた。  第二は、ひとことで言えば反トラスト論に立つ政府関係者であり、ハリー・ホプキンズ(Harry Hopkins)WPA長官の経済顧問であるレオン・ヘンダーソン(Leon Henderson)、司法省反トラスト局長のロバート・ジャクソン(Robert Jackson)、証券取引法(Securities and Exchange Act)の成立に貢献したベンジャミン・V・コーエン(Benjamin V. Cohen)やトーマス・G・コーコラン(Thomas G. Corcoran)などが主張するものであった。彼らは、生産と価格を市場の外で決めてしまう硬直した寡占体制を批判し、不況を深刻にさせたのは独占資本そのものであると強調した。彼らからすれば、不況の再燃はニューディール改革に反対する実業界や独占資本のサボタージュに起因するものであり、トラストを規制して景気回復の足枷となっている独占的高価格などの要素を除去することこそ急務であるという立場をとった。 このような2つの両極端な考え方の中間に位置して、1937年度予算の財政支出削減が不況を再燃させた主な要因であると主張する、いわゆる「スペンダー・グループ」と言われる政策担当者がローズヴェルト政権の内部に存在した。彼らは、財政支出を拡大して有効需要を生み出すことこそが景気回復の切り札であるとする立場をとり、当時国際的にも注目されつつあったケインズ理論の影響を何らかの形で受けていた。このグループのなかには、内務長官のハロルド・L・イッキーズ(Harold L. Ickes)をはじめとして、連邦準備局のマリナー・S・エクルズ(Marriner S. Eccles)やラウチリン・S・カーリー(Lauchlin S. Currie)、農務省のモーデカイ・エゼキール(Mordecai Ezekiel)などの有力なニューディーラーが含まれていた。  「スペンダー・グループ」は、1929年以来の不況ですでに約2億ドルが失われたと推定し、それを補完するために政府支出を拡大してより多額の民間資金を投資に誘導する必要があると強調した。これは、民間の経済活動を財政支出で調整しようとする「補整的支出論」(compensatory spending)とも呼ぶべき財政的考え方であり、財政支出によって民間経済活動に刺激を与えるという、それまでのいわゆる「呼び水」(“pump-priming” spending)政策よりも、はるかにスペンディングを積極的に景気回復の牽引力にしようとする立場であった。 ケインズの影響力 “ブレイン・トラスト”のひとりであるフェリックス・フランクファーター(Felix

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