GLOCAL Vol.18
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81937年恐慌とニューディール政策国際人間学研究科 国際関係学専攻 教授河内 信幸(KAWAUCHI Nobuyuki)金沢大学法文学部卒・立教大学大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学・金沢大学)。専門は、アメリカ現代史・国際関係史。編著書に、『現代アメリカの諸相』(中部日本教育文化会、1991年)、『現代国際関係の基礎と課題』(1999年、建帛社)、『ニューディール体制論―大恐慌下のアメリカ社会―』(学術出版会、2005年)、『グローバル・クライシス―世界化する社会的危機―』(風媒社、2011年)、『現代アメリカをみる眼―社会と人間のグローバル・スコープ―』(丸善プラネット、2012年)など。民間投資に十分点火することはなかったのである。このような民間設備投資の伸び率が低い条件のもとでは、景気の回復を本格的な好況に導くモメントが働かなかったのであり、これはニューディール政策の限界と景気回復の根本的な脆弱性を示すものであった。 その結果、インフレを懸念する連邦準備制度理事会が1936年後半からデフレ政策をとり、準備率の引き上げや金不胎化政策など、金融の引き締めに結びつく方針を実施すると、銀行信用の収縮や預金回転率の減少が著しく景気回復に水を差すことになった。しかもローズヴェルト政権は、新設の社会保障税を20億ドル取りたてながら、公共事業や救済計画事業などの財政支出を大幅に削減する方針をとったため、雇用の拡大や購買力の増強に大きなマイナス要因となってしまった。たとえば、雇用促進局(Works Progress Administration:WAP)その他の救済事業計画支出が1936年の24億5,370万ドルから1937年の18億2,330万ドルへと約26%近くも削減され、なかには公共事業局(Public Works Administration)のように、1935年から1936年にかけて2億1,850万ドルから6,950万ドルへと約68%も抑制された事業計画もあったため、連邦財政の歳出額全体を見ても、1936財政年度の84億9,000万ドルから1937財政年度の77億6,000万ドルへと財政支出が削減されたのであった。それまで、政府の財政出動が景気回復の牽引力になっていたことを考えると、こうした財政支出の削減は景気を後退させる直接的な引き金となったのである。恐慌のなかの恐慌 アメリカ(合衆国)社会は、1929年10月の株価暴落によって未曾有の恐慌に見舞われたが、初期のニューディール政策は、緊急救済・応急対策として一定の成果をあげることができた。その結果、1936年半ばになると景気回復の道筋が固まったかのように見え、1936年上半期の企業収益は前年同期よりも50%以上増加し、『ニューヨーク・タイムズ』紙の経済活動指数も1936年5月には1930年以来初めて100に達した。 こうして、大統領選挙を間近かに控えていることも手伝って、1936年7月前後には株価の上昇が目立ち始め、翌1937年2月から3月にかけては一種の株式ブームも起こった。ところが、1937年8月に突如株価が暴落し、同年9月の“レイバー・ディー”以後は景気後退、リセションの状況が顕著となり、「恐慌のなかの恐慌」とも言うべき深刻な事態となった(第1表参照)。1937年恐慌の背景 こうした深刻な恐慌の再発は、1937年初めに見られた景気回復が不安定で一時的なものであることを証明した。確かに、消費需要の拡大は耐久消費財の売上げを伸ばす消費者賦払い信用と財政支出によって進んだが、景気の回復過程における民間投資は部分的な更新投資に留まっていたのであり、建設産業部門をはじめとする企業の新規投資は依然として弱体なままであった。つまり、それまでの景気回復は、救済政策、公共事業、退役軍人へのボーナス支給などの財政支出に大きく依存したものであり、基本的に消費需要が主導する景気回復であって、第1表:1937年月別生産指数

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