GLOCAL_Vol17
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4戦後ジャーナリズム史におけるヴェトナム戦争報道国際人間学研究科 国際関係学専攻 准教授岩間 優希(IWAMA Yuki)立命館大学先端総合学術研究科修了。博士(学術)。専門は社会学。特に「戦争とジャーナリズム」を中心に研究を行っている。著作に『PANA通信社と戦後日本』(人文書院、2017)、『文献目録 ベトナム戦争と日本』(人間社、2008)、など。オーラルヒストリー調査を数多く行い、「越境による抵抗、あるいは抵抗のための越境―高橋武智氏に聞く―」『アリーナ』(18号別冊、中部大学、2015年)、などに発表。この時期のことだからである。それ以前はバンコクやシンガポール、香港特派員が何か事件があるごとに臨時でサイゴンに派遣されていた。だが64年から65年にかけて支局を開設し、現地からの報道に本腰を入れ始めたのである。ベストセラー3冊 最も早い時期に注目されたヴェトナム戦争もののルポルタージュとして、PANA通信社契約特派員だった岡村昭彦の『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波書店、1965)、小説家・開高健の『ベトナム戦記』(朝日新聞社、1965年)、毎日新聞外信部長だった大森実監修『泥と炎のインドシナ』(毎日新聞社、1965)がある。開高のルポは元々『週刊朝日』に連載されたもので、大森らのルポは毎日新聞に連載されたものである。いずれも、戦争が激化し始めた時期に発表されたものであった。これら3冊がこの時期の出版業界のベストセラーとなった。なぜヴェトナム戦争なのか 戦後日本のジャーナリズムにおいてヴェトナム戦争報道は黄金時代であったとも言われる。ヴェトナムを取材した戦場ジャーナリストの華々しい活躍は現在でも繰り返し想起され、沢田教一や一ノ瀬泰造といったインドシナ取材で命を落としたカメラマンの物語は映画にもなり、ヴェトナム戦争を知らない世代にもある種の憧れを抱かせている。 当時の新聞やテレビを考えてみても、ヴェトナム戦争は長期にわたってトップニュースを飾り続ける国際的事件であった。数多くの特派員が南ヴェトナムを取材し、少なくとも現地での検閲はなかった。このように自由な取材・報道が許された現代の戦争は他にない。 第二次大戦の敗戦からまだ20年しかたっていない日本の人々は、日々テレビによって伝えられるリヴィングルーム・ウォーを見ながらかつての自分たちを思い出さずにはいられなかった。空襲に怯えたあの日の自分と北爆下のヴェトナム人を重ね合わせる者もいれば、アジア人を苦しめる米兵に自らを見た者もいた。そしてそのヴェトナムへ戦闘機が飛び立っていたのは在日米軍基地からであったのだ。 ヴェトナム戦争報道が反戦平和意識を高めたのだろうか?それは現在のところ何とも言えない。日本のヴェトナム報道に関する研究は皆無だが、アメリカのヴェトナム報道に関する研究が伝えるところでは、報道が世論を反戦に導いたという明確な証拠はない。むしろ当初からメディアは米政府の対ヴェトナム政策に肯定的で、報道が反戦的に変化していったのは世論を後追いしてのことだった。 日本ではこれとは事情が異なる。1965年頃から日本のジャーナリストは戦争の被害者に目を向け、戦争の苦しみをニュースの中で取り上げていたし、この戦争に否定的な世論はその頃から目に見えるようになっていた。だが、これは20年前に原爆を投下されて戦争に負け、GHQによる占領を経験した国民に共通する感情でもあった。 とはいえ、まずは日本のジャーナリズムがこの戦争をどう伝えたのかを見ていこう。ヴェトナム報道はこれまで振り返られることがほとんどなかった。戦後の日本ジャーナリズムが自由で継続的取材をなしえた唯一の戦争報道であったにもかかわらずである。ヴェトナム報道の始まり ヴェトナム戦争は宣戦布告のない戦争だったため、いつを始まりとするかは論者によって違いがある。1954年にフランスがディエンビエンフーの戦いで敗北しインドシナから撤退した時点ですでに次の戦争が始まっていたのだとする見方もあれば、1960年に南ヴェトナムで解放民族戦線が結成された年を起点とする見方もある。あるいは、1964年8月のトンキン湾事件、1965年3月の恒常的北爆開始を始まりとする見方もある。 日本のヴェトナム報道の始まりを、筆者は1964年末から1965年にかけてと考えている。なぜなら、マスコミ各社が南ヴェトナムの首都サイゴンに支局を開設し始めたのが図1. 岡村昭彦写真展盛況の様子(筆写所蔵)

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