GLOCAL vol.15
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6日影丈吉『泥汽車』を読む異として登場してくる女性は「母性的」であると指摘されている。 以上の点を考慮しながら、震災後の少年の自然に対する中立的な態度、変化を受け入れる態度、“母”を象徴する“モノノケ”との決別を統合して、私は『泥汽車』を少年の成長と郊外の都市の開発を象徴的に重ねた物語であるとした。おわりに これからの研究として日影作品の「幻想」の 成り立ちに焦点を当てて、例えば朧化、回想、超自然的存在などの要素がどのように互いに影響を及ぼしながら結びつき、「幻想」を成り立たせているのか。また卒論ではほとんど取り上げなかった語り手の機能などをたよりに、物語の内容について、また幻想の意味について分析し、日影丈吉の幻想作品の特色について明らかにしたい。注(1)奥野健男「解説」『鳩』早川書房 1992年(2)横山茂雄「解説」『日影丈吉全集』第七巻 国書刊行会 2004 年日影丈吉について 本名は片岡十一。明治41年(1908)に東京市深川区に生まれる。昭和24年(1949)に『かむなぎうた』で雑誌『宝石』よりデビュー。主要作品に『吉備津の釜』(1959)、『応家の人々』(1961)、『泥汽車』(1989)など。現実と非現実の境界が曖昧になるような、幻想的な作品を描く作家として一定の評価を得ている。『泥汽車』 『泥汽車』は日影丈吉の少年時代の体験をもとに書かれた作品であるが具体的な場所や、年代はぼかされている。主人公の少年は身近で行われる自然破壊を見つめながら、超自然的存在(モノノケ)との関りを経て、だんだんと忙しくなりつつある日々のふとした間隙に自然とは、世界とは何かを理解する手掛りを発見する。 この作品の研究で問題にしたこととして解釈をめぐる二つの立場がある。一つは自然と文明の二項対立を作品に当てはめて、破壊されていく自然を少年期の終わりに重ねて語る物語とする解釈。(奥野健男、堀切直人)「そしてもうこの時代から無神経な自然、いや由緒ある景観の破壊が恐るべき無神経さで行われてきたのかと思うと慄然とする」(1) 二つ目は少年の「私」が自然による神秘的な体験を通して自然、世界の本質を「ただ変わること」だと規定する所から「閉じられた世界からの脱出譚」(2)とする解釈。(横山茂雄) これらの解釈にはそれぞれ批判すべきポイントが一つずつ存在する。まず、少年は本当に自然破壊に憤りを覚えていたのかという問題。横山は奥野の解釈に対して自然の破壊に焦点を当てて『泥汽車』を要約するのは危険だと述べた。この指摘は正しいと思われる。なぜなら、作品内で暗示される関東大震災以後と以前で主人公の行動、価値観は大きく変化するため、自然と文明の対立構造は、物語後半では機能することが難しくなるからだ。少年は、世界をただ変化することのみが存在するのだというふうに規定する。 次に(横山の論考に対して)話の後半部だけに焦点を当てて解釈するのは不十分ではな いかという問題。横山の論考では物語の多くを占める少年とモノノケとの交流や自然破壊の描写を無意味なもの、危険ものとしてほとんど論考において触れておらず、したがってそれは一面的な見方と言わざるをえない。 もう一つ問題にするべき点として、作品の前半部分における超自然的存在(モノノケ)が「母」を象徴しているという点について述べたい。『泥汽車』においてモノノケはほとんど女性として描かれ、母性を想起させるような特徴を持っている。「それは死人のような白い着物を着て、髪を長く垂らした女で(中略)女はすっぺりした、やさしい顔をしていて(中略)きらびやかな衣装を着た、ふくよかな女になった。」これは、他の日影作品にも共通する要素の一つであり、紙村徹「日影丈吉の描いた台湾の『闇の奥』─日影丈吉はいかにして異郷台湾と出会ったのか」でも怪国際人間学研究科 言語文化専攻 博士前期課程1年梶原大貴(KAJIWARA Daiki)1996年生まれ。2019年4月、本研究科に入学。専門は近現代日本文学。主に日影丈吉、色川武大、笙野頼子などの自己語りと幻想が結びついた作家に注目をしている。s

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