GLOCAL vol.14
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2019 Vol.142019 Vol.142019 Vol.142019 Vol.145る。中央本線の開通時に駅があったのは千種駅のみで、西の名古屋駅に対し、千種駅は東の玄関として位置づけられた。中央本線に限らず、傾斜が苦手な鉄道は台地や段丘など平坦な地形を探しながら建設された。建設時の苦労を思い起こさせる痕跡は、複雑化した都市構造の中に埋没して見えにくくなってしまった。しかし基本的に、リニアな鉄道インフラの特徴は時間が経過しても大きくは変わっていない。現代都市は近代に建設された都市構造の延長線上にある。都市形成に関わった空間的論理に気づく都市を読み解く意義は、都市を歴史的、地理的に理解する点にある。それは教育・研究以外に、まち歩きの楽しみや観光を目的とする場合についてもいえる。どのような都市においても、なぜここを旧道が走っており、またなぜ溜池が沢山あるのかなどといった疑問を抱かせる素材がころがっている。丘陵地を造成して生まれた大学や住宅団地にも、その場所が選ばれるに至る時代的状況があったはずである(図4)。都市を読み解くカギは、都市形成に関わったであろう空間的論理の、歴史的、地理的な働き方に気づくことである。駅として開業した。名古屋駅の開設場所は、吉田禄在・名古屋区長の主導のもと、広小路通を西に延ばした地点に決まった。江戸期の大火の教訓で火除地として拡幅された広小路通の東端には、愛知県庁、名古屋区役所、名古屋商法会議所(商工会議所)があった。旧名古屋城は天皇が宿泊する離宮や鎮台になっており、官庁は栄付近に集まっていた。駅を降りたら正面前方に官庁街がある、そのような場所として名古屋駅は設けられた。この駅舎は濃尾地震で被害を受けたが生き延び、1937年に現在地に新築移転した。これは貨客の増加に対応するためで、併せて笹島貨物駅や稲沢の貨物操作場など、鉄道インフラも整備された。市街地を走る路面電車は京都電鉄の伏見線に続く全国で2番目に早い建設であった。名古屋駅が主要駅になったことにより、江戸時代に城下への出入り口を意味した「名古屋五口」は昔語りとなった(図1)。中央本線のルート選びを左右した地形条件日本列島の中央付近を東西に連絡する鉄道として、東海道本線が全線、開通した。ルートは、名古屋以西は旧中山道と旧岐阜街道、名古屋以東は旧東海道に沿っている。しかしこれだけでは不十分であり、名古屋と大阪を結ぶ別ルートが関西鉄道株式会社によって建設された。この鉄道はのちに国有化され関西本線となるが、名古屋の東側では中央本線が国によって建設されることになった。名古屋は西の起点となり、東の起点として八王子が選ばれた。当初は東海道本線との接続を考えて御殿場とされたが、最終的には八王子に決まった。八王子から神奈川、山梨、長野の諸県を通るルートは、地形条件を考慮すると旧甲州街道沿い以外考えられない。問題は塩尻から中津川、中津川から多治見、さらに多治見から名古屋へ至るルートの選定である。木曽山脈の横断は当時の鉄道技術では不可能であり、中津川までは日本海に向けて流れる奈良井川沿いを、そこから鳥居峠を越えて木曽川沿いを進むルートが選ばれた。中津川以西は険しい木曽川峡谷部を避けて庄内川沿いに多治見へ至る。多治見からは、旧尾張藩の御用窯として栄えた瀬戸を経由して名古屋へ向かうのが都市の力関係からすれば当然だったかもしれない。しかし瀬戸経由案は標高400m前後の愛岐丘陵を越えることができず採用されなかった。その結果、小牧経由で名古屋へ北から入るルートと、春日井(鳥居松)経由で東から入るルートの間で激しい論争が繰り広げられた。最終的に、名古屋の発展は東に向かうという東郊派が、北に向かうと主張した北郊派に勝ち、庄内川沿いルートに落ち着いた(図2)。しかし多治見〜高蔵寺間の庄内川の深い峡谷部に鉄道を通すような平坦地はない。なぜこれほど深い谷があるかといえば、それは太古の昔から絶えることなく流れ続けてきた庄内川が、隆起を続ける山地を侵食してきた結果である。専門的には先行谷と呼ばれる谷の合間を縫うように14か所のトンネルが建設された。複線電化を機に現在は長大トンネルに代わった箇所もあり、使われなくなったトンネルは近代交通遺産として保存運動の対象になっている。地形を読んで建設された鉄道・駅と都市構造名古屋駅始発の中央本線の列車は、金山駅では半地下構造のホームにすべりこむ。ここが半地下構造になっているのは、武豊線の建設時に熱田台地上の道路と立体交差させるためである(図3)。崖を崩して掘り出された土砂は、低湿地の名古屋駅へと至る鉄道敷地を嵩上げするために利用された。つぎの鶴舞駅は高架式で、さらにつぎの千種駅に着くとホームの東側は壁になっており、西側は普通の変則的な半地下ホームであることに気づく。鶴舞駅あたりもかつては低湿地帯で、鶴舞公園は新堀川の改修時に出た土砂を埋め立てて高くした土地である。千種駅の西側は名古屋台地の一部が南北方向に侵食されたために東側より低い準低地であ図3:地形に応じて建設された中央本線と駅図4:中部大学付近の地形区分と空撮写真図2:名古屋〜多治見間の中央本線建設ルート(1894年頃)図1:近世の「名古屋五口」から近代の名古屋駅集中へ

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