GLOCAL vol.14
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4名古屋圏の都市を読み解く −地理学的アプローチ−材は木曽谷から筏流しで運んだ。近世・名古屋の市街地は名古屋台地の上にほぼ限られていた。西側や北側に広がる低湿地を避け、水はけの良い台地を選んだ家康には先見の明があった。名古屋に城を構えた尾張藩の領域は、西と北は木曽川、東は丘陵地、そして南は半島を含む海岸というように、地形によって画されていた。ただし木曽谷や岐阜の町など飛び地的な領域もあった。尾張藩の領域は広大な尾張平野を含む尾張国にほぼ等しく、いかにこの藩が有力であったかがわかる。小藩が入り乱れていた三河国と比べると、対照性は明確である。廃藩置県で尾張と三河は一緒になるが、愛知県庁が尾張藩の旧役所を引き継ぐことに異論を挟む余地はなかった。鉄道でつながれた名古屋の都市構造近代日本の国づくりの根底には鉄道建設があった。ただし、国家的スケールでの鉄道建設の起点は首都に定められた東京や、近世まで経済、政治の拠点であった大阪、京都であり、名古屋は中間的地位に甘んじた。新旧2つの都を結ぶ「両京鉄道」の建設ルートとして旧東海道沿いと旧中山道沿いが候補になったが、名古屋はそのいずれの上にもなかった。国は、列強による海側からの脅威を考慮して旧中山道沿いに建設することを決めた。鉄路は西から東へと延ばされ大垣までが完成した。さらに東へ延ばすために建設資材を品川から海路、伊勢湾まで運ばなければならなかった。名古屋港はいまだなく、武豊港から陸揚げすることになった。そのために武豊線が、イギリス人鉄道技師のウイリアム・ピッツの指揮のもとで建設された。名古屋駅は日本海側の敦賀まで延びる武豊線の途中「名古屋圏」という名前の由来と歴史的背景地表上のある空間を地名として呼ぶ場合、その空間の特徴をできるだけ正確に表す地名であるのが望ましい。「名古屋圏」とは、近世はじめに名古屋に城下町が開かれ、250年後に近代に移行してからも、引き続き名古屋が大都市として周辺に対して影響を及ぼし続けてきた範囲をいう。地理学ではこうした影響圏や都市的結びつきの広がりを圏域と呼ぶ。それゆえここでは、古い都を中心に東側の海であるから、2つの都の中間であるから、あるいは日本の中央付近だからという曖昧な理由による東海、中京、中部という地名は用いない。あくまで大都市がその力でつくり上げてきた実質的圏域にふさわしい名前で呼ぶことにする。さて、その名古屋圏が今日のような姿になるまでの歴史的過程を振り返ると、大きな前提として、伊勢湾の元にもなった巨大な湖の存在が大きい。湖であるから周辺には丘陵や山地が広がり、多くの河川が土地を削りながら湖に流れ込んでいた。湖の堆積土は常滑、瀬戸、美濃の窯業原料となり、地場産業都市が誕生した。巨大湖は南側が切れて湾すなわち伊勢湾になったが、その後の土地の隆起や沈降も重なり、複雑な地形が生まれた。地形は地殻運動だけでなく、海水準の変化の影響も受けた。伊勢湾が広がった温暖期は大垣付近に海岸線があり、気温低下とともに海岸線は後退した。海岸線の後退とともに現れた陸地は低湿地であり、集落の立地は微高地上に限られた。古墳時代、集落は水害に遭いにくい標高5mより高いところに生まれ、有力者は台地の縁辺に古墳を築いた。熱田の断夫山古墳は直径が150mもあり、尾張氏の勢力が海岸近くの台地上にあったことがわかる。その後、尾張の中心が尾張平野の北側に移ったことは、律令期に設けられた国府・国分寺・国分尼寺の跡が稲沢にあることからわかる。尾張でもっとも格の高い一宮は、文字通り尾張一宮の真清田神社である。ちなみに二宮は犬山の大懸神社、三宮が熱田神宮であった。さらに平安、鎌倉、室町と時代は続いて戦国の頃になると、清洲が政治中心になる。東海の巨鎮と称された清洲は、しかしながら低湿地に囲まれており、天下統一をなした徳川家康は那古野(名古屋)に新たな政治拠点を築くことにした。古渡(金山の北)、小牧も候補になったが、選ばれなかった。近世の都市計画都市・名古屋のスタート家康は、名古屋台地あるいは熱田台地と呼ばれる逆三角形状の台地の北西端に防衛を重視して城を築き、その南側に町人を住まわせた。清洲から移住した町人衆は、新たにスタートした城下町の最初の住人あり、以後、「清洲越し」という言葉は名古屋でもっとも古いことを意味するようになった。信心深い家康は美濃羽島の大須の地名と寺を借用し、南寺町・大須を城下に設けた。武家地の東側にも設けられた寺町は、合戦のさいに防御拠点の役割を果たした。これらに囲まれるように、一辺が1町(約109m)の長さをもつ碁盤目状の城下町が計画的に建設された。しかし弱点もあり、江戸や大坂に比べると城下町の中心は海岸から遠かった。このため家康は福島正則に堀川の掘削を命じ、熱田から生活物資を舟で運ばせた。熱田湊には魚市場や木材市場が立ち、納屋橋にも湊があった。木国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 特任教授林 上(HAYASHI Noboru)1975年名古屋大学大学院文学研究科博士課程修了。『中心地理論研究』で文学博士(名古屋大学)取得。日本都市学会賞受賞、人文地理学会賞受賞。名古屋地理学会会長、港湾経済学会中部部会会長。専門は都市経済地理学。

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