GLOCAL vol.12
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2018 Vol.122018 Vol.122018 Vol.122018 Vol.127な日中戦争遂行の方法は、土地を守る民兵のような最低限の軍事力に依存しながら、防衛に専念する政権を持続させていくことであったと言ってよい。おわりに共産党地域政権の財政の基本問題は、日本軍に対抗するために可能な限り部隊を維持しなければならないが、自らの支配領域はいくつかに断片化され、その物的資源は有限であったため、軍需に対して供給能力が限られているということであった。この問題に対して共産党は、民兵に依拠した最低限度の武装兵力を維持する防衛的政権の建設に活路を見出した。この政権の性格は、どうにか政権を維持しなければならない状況下で、まさにその状況に応じてそれに対処した結果、形作られたものであったと言える。土地に基づくナショナリズムを生かした政権維持の道筋は、毛沢東が示した農民との連帯(農村工作重点主義)も相まって、中華民国の農村を再構築することにつながった。そして、再構築された農村は、言うまでもなく1949年に成立することになる中華人民共和国の基層構造をなしたのである。日中戦争=国家再建の時代における中国共産主義運動の内実は、必ずしも高邁なドグマによって組み立てられた戦略で作られたものではない。戦争を戦い国家を再建する上でこの運動に存在していたものは、勝つか負けるか生きるか死ぬかの状況に対応した、数多の現実的な常識への配慮であったと思われる。引用文献中共中央文献研究室編『毛沢東文集』第8巻、北京:人民出版社、1999年。樊吉厚・李茂盛・楊建中編『華北抗日戦争史』中、太原:山西人民出版社、2005年。『太行区経済建設問題』晋冀魯豫辺区政府編印、1945年。中央案館編『中共中央文件選集』13、北京:中共中央党校出版社、1991年。一谷和郎「革命の財政学」高橋伸夫編『救国、動員、秩序』慶應義塾大学出版会、2010年。が支給されることになっていた。日本兵は主食のみで約2768kcalを得られた計算になる。「我々が頼りにするのはアワと小銃にすぎない」と毛沢東は言ったが、給養の規定から想像をたくましくすれば、華北の日本兵は、それと対峙した八路軍兵士よりも400kcal近く上回る熱量を日々摂取していたことになる。兵と党・政幹部を支えた共産党支配下の人民は、政権に対し税や公糧、村経費を負担したが、時と場所によっては過重な経費を支出することもあった。晋冀魯豫辺区太行区賛皇県(河北省)の事例を挙げると、当県の人民が辺区政府に対して負担した穀物量は、全県総収入の14%に当たる2000石であった。1人当たりでは年間17.42斤(約7.5kg)の計算になる。これは実は少ない負担ではない。もともと可処分所得の少なかった当県の農民は、年間200日ほど糠やトウモロコシの茎、ササゲのようなマメ科の草、ヤマイモの蔓などを代食品とする生活を送っていたのである。百団大戦とその後の政権建設共産党地域政権は、辺区政府の限られた財政基盤の下で、どのような形での日中戦争の遂行が可能であったのだろうか。1940年夏、中共中央は各根拠地の資源動員能力の限界を突破する手段として、根拠地に部隊を集中してそこに居座らせるのではなく、戦線を広げて軍事的支配領域を拡張する選択肢を選んだ。それは部隊に運動戦を要求して日本軍と地盤を争うことを意味した。同年8月から12月にかけて実行された百団大戦がその実践であった。百団大戦によって、八路軍は確かに日本軍の拠点と交通に大きな損害を与えたが、支払った代価はそれらを上回った。財政上の問題点として、戦役の規模と時間が部隊に対する政権の供給能力を超えていたため、兵を維持することができなかったことが指摘されている。要するに、戦役の継続と財政基盤への配慮は根拠地政権にとって両立しがたいことであった。結局、八路軍は日本軍の反撃に対して何ら有効な打撃を加える力もなく、かえって共産党の支配領域は損なわれたのである。鄧小平・劉伯承は百団大戦後、晋冀魯豫辺区の指導者としてまず政権の存立を図るべく、軍・政にわたる人員削減に着手した。当時太行区だけで正規兵と党政機関幹部は6万人余りに達しており、彼ら党が給養すべき人員は人口の4%にも相当したからである。「精兵簡政」と称されたこの改革の内実は、主力部隊を補充源とする民兵の大幅な増加であった。その眼目は、可能な限り軍費を抑制することにあった。兵士を生産から離れない民兵とすることで、党が扶養すべき兵の数を制限しようとしたのである。党中央の指示に先駆けて、言わば見切り発車で地方政権の立て直しに乗り出した鄧小平は、軍のある拡大会議上、「民兵向けに特化した費用は作らなくてよい。公糧を口にすることは許されない。さもないと公金を浪費し、人民負担を増やしてしまう」と厳しく指摘した。志願制の基幹自衛隊と青年抗日先鋒隊で構成された民兵は、太行区で1941年に5万6500人にのぼった。彼らの務めは村と住民を敵の襲撃から免れるようにすることであった。百団大戦以降大規模な攻勢をかける余裕がなくなった共産党政権は、土地の防衛を民兵に依存しようとしたわけである。1942年から翌年にかけて太行区で実施された精兵簡政の結果、八路軍では6650人の兵士が削減され、2万47人を正規兵として残すのみとなった。百団大戦から共産党が学んだことは、財政からみて、戦略的攻勢が可能な正規軍を中心とする軍事力を長期にわたって維持する能力が党にはないということであった。正規軍の削減は、そうするより他に深刻な状況をしのぐ術がなかったことを示す措置であった。主力軍の削減とその地方化は、やがて共産党が日中戦争を戦うための方針となり、地方武装が民兵を指導し、彼らが彼らの土地を離れず抗戦を継続することの重要性が増していった。兵の動員は、最小限度に抑えられてはじめてその継続が可能であった。1941年末になると、党中央は力の温存と支配領域の安定を政権の中心任務に掲げるようになっていた。すなわち、巨大な軍事力を抱えることは、必ずしも共産党が支配を浸透させるための重要なモメントでなくなっていた。つまり、共産党地域政権の限られた財政基盤の下で可能

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